歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

松平徳川女人列伝(連載第1回)

 

 日本の近世で最も持続的な成功を収めた一族と言えば、松平=徳川氏であろう。三河の山間の土豪から出たほぼ無名の一族が最終的に天下を治める最高執権者にのし上がるに当たっては、歴代当主の軍事的・政治的な手腕が寄与したことは間違いないが、一族が断絶することなく繁栄するには、女性の力がかすがいとなることも、これまた言うまでもない。
 社会慣習的には中世の延長としての要素が強かった近世の武家女性と言えば、一夫多妻制の下で世子や世子候補を産む多くの妻妾のほか、婚姻戦略に基づき他家へ嫁ぎ、姻戚関係を構築する息女とがある。
 土豪戦国大名松平氏時代から将軍家にのし上がった時代すべてを包括すれば、これらの妻妾・息女の総数は膨大であるが、その中で生没年や事績、人物像までが明確に記録されている人は多くない。このように一族繁栄のかすがいでありながら、女性の足跡が充分に残されなかったのも、中世以来の男性優位社会の延長と言える。
 本連載では、松平=徳川氏の妻妾・息女の中から、比較的記録が残されている人物を列伝の形で取り上げ、描出してみたい。ちなみに、筆者は、松平=徳川氏の宗家当主や歴代将軍、分家当主ながら有力な人物については、先に『私家版松平徳川略紀』で描出した。本連載は前連載と完全に対を成すわけではないが、姉妹篇のような位置付けを持つことになる。

 

一 於富の方(1492年‐1560年)/於大の方(1528年‐1602年)

 土豪戦国大名時代の松平氏の女人に関しては、ほとんど記録がない。徳川氏家伝上、家祖は新田氏系世良田氏から松平氏に婿養子に入った浪人出自の松平親氏とされるが、親氏の妻となった松平水女という女人に関しても、時の松平氏当主松平信重の息女という以外に特段の情報がない。
 信頼に値する記録が明確になるのは、松平宗家第7代当主松平清康徳川家康祖父)の後妻とされる於富の方(または於満の方)からである。とはいえ、於富の方についてもその出自には諸説あり、一定しない。ただ、彼女は当初、元来松平氏とはライバル関係にあった水野氏に嫁いだ事実ははっきりしている。
 それが松平清康の後妻となるに当たっては、清康が水野氏を攻めてこれを破った際の講和条件としてもらい受けたとされる。戦国時代には女性がある種の戦利品としてさらわれることもあったことからすれば、あり得ない話でもないが、これを疑問視する説もある。
 清康後妻説が真実でないとすれば、於富は松平氏の女人ではないことになるが、孫の家康が今川氏の人質だった幼少期に10年近くも養育に当たったことからすれば、家康祖母として実質上は松平氏の女人としての役割を果たしたと言えよう。

 
 この於富の方が水野氏当主水野忠政との間に産んだ息女が、於大の方である。彼女が松平清康の世子広忠に嫁ぐに当たっては、急速に勢力を伸ばしていた松平氏との同盟関係を強めたい父忠政の婚姻戦略があったようである。
 そして、この婚姻の結果、天文11年(1543年)に誕生したのが、後の家康となる竹千代である。ところが、それからわずか二年後、於大の異母兄で当時水野氏当主となっていた水野信元が今川氏を裏切り、織田信長の下に走ると、於大も離婚されてしまう。このような一族連帯責任もまた、中世的な社会慣習からの継承であった。
 この後、於大は信元の婚姻戦略に従い当時織田氏の配下だった久松氏と再婚し、数人の子をもうけた。この点からすると、於大は実質上久松氏の女人としての役割が大きかったと言える。しかし、後に今川氏から独立し、織田氏に付いた家康は於大や異母弟らと和解し、久松氏に松平姓を授与、江戸開府後は大名に列している。
 於大は剃髪して伝通院を称した晩年まで家康と連絡を取り、特に悪化していく豊臣氏との関係調整に尽力するなど、限定的ながら政治にも関与していたことが窺える。彼女は当時としては長寿の70歳代まで生きたが、江戸開府の一年前に没し、息子の最終的な勝利を見届けることはできなかった。
 こうして、戦国時代からその終わりまでを生き通した於大は、中世的な慣習によって意に沿わぬ離婚・再婚を強いられながらも、これまた中世的な慣習によって論功上徳川氏縁戚として遇され、浮沈の大きな生涯を送ることになった。