歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

外様小藩政治経済史(連載第7回)

二 谷田部藩の場合

(2)経済情勢
 小藩の領地は当然ながら狭隘なため、一様に財政的に苦境になるが、谷田部藩の場合は格別であった。前回も見たように、谷田部藩領は陣屋の置かれた常陸側の谷田部と下野側の茂木とに分かれていたところ、言わば「藩都」の谷田部は湿地帯の痩せ地、茂木は山間の荒れ地というありさまで、いずれも農業不適の地であった。
 そのうえ、国許家臣は50人にも満たないため、陣屋町の谷田部も消費中心地として発展する見込みがなく、しかも近郷に筑波街道の宿場町・真瀬があったあおりで、街道から外れた谷田部の商業的発展はいっそう阻害されたのである。
 こうしたことから、谷田部藩は全史を通じて財政難であり、遠く熊本藩本家からの借財―返済できず、債務免除を受けたため実質上は無償援助―に依存せざるを得なかった。
 3代藩主細川興隆の時にようやく検地が成り、自立できるかに思われたが、その後、享保年間以降、19世紀にかけては天災による凶作が続き、さらに江戸藩邸が五回も焼失する―これにも財政難からの防火体制の不備が想定される―などして財政は急速に悪化、天保年間には13万両を超える負債を抱えていた。
 このような状況に至った要因として、藩主の驕奢志向も拍車をかけていた。小藩とはいえ、藩主は名門細川一族であるから、面目を保つためにも藩主は倹約に消極的であったのだろう。一方で、最盛期には1万人を超えていた領民は天保年間にはほぼ半減していた。死亡や逃散がいかに多かったを示している。
 藩が重い腰を上げたのは、天保6年(1835年)のことである。時の7代藩主細川興徳が世に名高い経世家二宮尊徳の仕法による改革を決意したのである。ただ、興徳は間もなく死去したため、後を継いだ婿養子の8代藩主・興建が実質的に主導することとなった。
 この尊徳仕法の実務を担当したのは、尊徳の弟子で藩医中村元順(勧農衛)であった。尊徳仕法の特徴は典型的な封建領主的発想に基づく年貢増徴によるのでなく、「興国安民論」に基づき藩主が率先して倹約する「分度」を起点とする民本主義的な手法である。
 この点が小藩にもかかわらず驕奢志向の谷田部藩と相容れず、改革は中断を余儀なくされた。しかし中村の粘り強い耕地回復努力と借財の棒引き、さらに熊本藩による債務免除などの支援を得て、弘化年間には負債を4万両未満にまで削減することに成功した。
 こうして、谷田部藩の尊徳仕法は財政再建策としては一定の成功例と言えるが、途中から藩との関係が悪化した尊徳の評価は辛いもので、藩が「分度」を十分に行なっていないことを厳しく批判している。実際、最後の藩主となる9代興貫の時代には凶作もあり、百姓一揆が頻発、幕末へ向け、改革成果は失われていくのである。