歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

外様小藩政治経済史(連載第17回)

 四 福江藩の場合

 

(4)幕末廃藩
 福江藩の幕末は、おおむね第10代藩主五島盛成[もりあきら]とその子である第11代盛徳[もりのり]の時代に相当する。
 盛成は、父の前藩主盛繁が早期に隠居したため、文政12年(1829年)に家督を相続し、藩主となった時は、まだ10代であった。福江藩主はある種の辺境領主でもあったため、父の代には幕府から西欧列強の来航に備えた海防強化策を求められ、元来脆弱な藩財政が一層逼迫していた。
 そうした海防強化の集大成として、親政開始後の盛成は新たな海城の築造を計画した。これが石田城である。元来、福江藩は城持ち大名への昇格を悲願とし、居城の築造を幕府に願い出ていたが、許可されていなかったところ、幕末の幕府の海防強化策とマッチする形で念願がかなったのであった。
 しかし、財政難に加え、海城特有の技術的な困難さ、また戦乱の世が遠く去り築城技術そのものも廃れつつあったことなどから、工事は遅れ、14年の歳月をかけて、まさに幕末の文久3年(1863年)にようやく完成を見た。日本における最後の居城であった。
 完成時には、すでに盛成は隠居し、盛徳が藩主に就いていたが、盛徳は生来の病弱のため、盛成が引き続き、院政を行っていた。幕末の倒幕運動に際しては、おそらくは盛成の承認のもと、他の小藩の多くと同様、尊王・倒幕に傾き、盛徳も上京して新政府軍に忠誠を誓った。
 ここまでは比較的順調であったが、維新後に問題が発生する。分知領であった富江領は幕末に際して佐幕派であったことから、幕府より改めて本領安堵を受けていたところ、朝廷・明治新政府からは一転、福江藩への併合を命じられたことに対し、富江領は強く反発、領民も巻き込んだ騒動となった。
 富江領は本家の石田城築造に際してはパイプを持つ幕府との仲介の労を取り、財政支援までした経緯があったことも、併合への反発理由であったろう。この騒動を新政府も重く見て、仲裁に動いたが、合併の結論に変更はなかった。
 富江領側は諦め切れず、嘆願を続けた結果、妥協策として、北海道に1000石の開拓地を保障されることで決着したが、200名にも及んだ家臣や領民を養うには不十分であり、結局、富江領は廃止となった。
 一方、併合でおよそ200年ぶりに富江領を回復する形となった福江藩も、その後、廃藩置県に伴い、藩知事となっていた盛徳も免官となり、明治8年(1875年)、父に先立ち死去した。
 ちなみに、石田城は、明治政府の廃城政策により、完成から9年後の明治4年(1972年)には破城となったため、築造14年の歳月は小藩の徒労に終わった。