歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

外様小藩政治経済史(連載第8回)

二 谷田部藩の場合


(3)社会動向
 谷田部藩は、細川氏の分家が入部して築いた経緯から、地元民にとって領主は外来者であった。その点、中世以来の在地領主で立藩にも地元農民が深く関わった苗木藩のような小藩とは根本的に異なっていた。
 藩主家も「名門」の気位から豪奢な暮らしを好み、重税策に走りがちで、土壌の性質から不作に苦しむ地元民との間には大きな溝があった。特に4代藩主細川興栄は粗暴な性格のうえ、先代の時に初めて実施された検地をもとに重税を課すなど、悪政の模範を示した。
 このような藩の行く末は、百姓一揆の頻発である。藩財政が完全に行き詰った文化・天保年間にかけて四回の百姓一揆を記録しているのも、特筆すべきことである。こうしたことが7代藩主細川興徳の背中を押し、尊徳仕法の導入に踏み切らせたことは前回述べたとおりである。
 それでも、藩主の倹約はなかなか実現せず、尊徳の批判を浴びたことも述べたが、財政再建には一定の成果を上げた後も、幕末に凶作に見舞われ、再び百姓一揆が頻発、より政治的な世直し一揆も発生する有様であった。
 このように対領民関係は最悪レベルだった谷田部藩であるが、文化的には小藩に似合わぬ文人を生んでいる。中でも名高いのは、発明家飯塚伊賀七である。庄屋出自の彼は理数系の才覚に恵まれ、からくりや和時計、地図、五角堂に代表される建築、農業機械など多方面にわたる発明で名を成した。
 彼はまた庄屋として政治的折衝にもすぐれ、天保4年の暴風に起因する凶作で百姓が年貢引き下げの強訴をして投獄された際には、釈放を求めて交渉している。この時、凶作を見越した伊賀七は、自身の発明した脱穀機を五角堂内に設置したとも言われる。
 また伊賀七も私淑した蘭学者広瀬周伯も谷田部の医師であった。杉田玄白門弟であった周伯は天文学にも明るく、寛政年間に天文学書『図会蘭説三才窺菅』を著し、地動説の紹介も行なっている。
 こうした小藩には珍しい高度な文化活動は、「谷田部に過ぎたるもの三つあり、不動並木に広瀬周度、飯塚伊賀七」と揶揄されるところとなった。ちなみに、不動並木とは陣屋町に植樹された不動松並木のこと、広瀬周度は上記周伯の子息で、やはり蘭学者・画家である。
 これらに象徴される藩の高踏的趣向も、片田舎の小藩主ながら「名門」細川家の気位と関わりがあるように思われる。しかし当然ながら、それは藩の社会的安定に資する要素ではなかったのである。