二 谷田部藩の場合
(4)幕末廃藩
谷田部藩は経済財政面では恒常的な困難に直面しながらも、政治的には大きな家中騒動もなく、幕末まで世系をつないでいくが、実際のところ、5代藩主興虎は京都の公家姉小路家から婿養子に入りながら廃嫡された興誠の子であったため、5代目以降は血統上すでに細川氏ではなくなっていた。
そのうえ、8代興建も久留米藩主有馬氏から婿養子に入っていたから、ここで改めて血統が転換していた。そして、興建の嘉永5年(1852年)の隠居に伴い家督を継いだのが、最後の藩主となる長男の興貫である。
先代の興建は九州からはるばるやってきた婿養子にもかかわらず、前に見たように、藩の財政再建に熱心に取り組み、尊徳仕法を取り入れた改革をある程度実現していた。興貫はその成果を享受できたはずであるが、凶作に見舞われ、改革の成果は相殺されてしまった。
そのうえ、興貫は就任時まだ19歳と若く、後見役の父も三年ほどで死去したため、藩政運営は苦しかったと思われる。ただ、谷田部藩は地政上水戸藩にも近かったが、尊王攘夷運動とは一線を画しており、本家熊本藩で見られたような藩論の激しい分裂は起きていない。
もっとも、個人的に天狗党の乱に参加した谷田部藩士が存在したほか、幕末に相次いだ西洋人襲撃テロ事件の一つである鎌倉事件の犯人の一人清水清次は元谷田部藩士とする記録もある(公式には遠州出身浪人)など、谷田部藩も攘夷運動と無縁というわけではなかった。
興貫自身は、多くの外様小藩大名同様、当初は佐幕派として様子見をしていたが、戊辰戦争が勃発すると、態度を変え、家臣を率いて上京、新政府に恭順した。その後、新政府の命で会津戦争にも出撃した。このような姿勢は、ほぼ同世代の本家熊本藩12代藩主細川護久とも重なる。
明治維新後は、版籍奉還により藩知事になると、200数十年ぶりに陣屋を飛地の茂木に再移転したが、廃藩置県により茂木領が新設の新治県に編入されたことで、免職された。かくして、谷田部藩は歴代藩主が比較的長命だったため、本家熊本藩の計12代と比べても少ない計9代をもって幕を閉じるのである。