歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版足利公方実紀(連載第8回)

九 足利義教(1394年‐1441年)/義勝(1434年‐1443年)

 足利義教は、甥の5代将軍義量が早世した後、兄の先代将軍義持に世子がなかったことから、義持の存命中の4人の弟の中からくじで選ばれるという前代未聞の経緯で6代将軍に就任した。日本の政治史上、最高執権者がくじで選ばれた唯一の事例である。
 義教の就任が異例だったのは、くじ引きによったばかりでなく、元服前に出家した身から還俗して将軍職に就いたことである。そのため、髪が伸び、改めて元服してから将軍職に就くという異例のプロセスを経た。
 このような異例尽くめの将軍として周囲からも軽視されることを恐れてか、義教は仏門にいたとは思えぬ横暴な振る舞いを意識的にする傾向があり、その治世は民衆から「悪御所」と渾名され、公家からも「万人恐怖」と評されるほど暴虐に満ちていた。
 このことは、義教が政策的には、合議を重視し結果的に将軍の権威低下を来たした兄義持の路線を否定し、父義満時代の将軍親政を復活させようとしていたこととも関連するだろう。
 管領の権限を抑制し、将軍主催の内輪的な会合である御前沙汰を最高意思決定機関としたほか、将軍親衛隊である奉公衆を整備して、将軍直属軍を強化した。また秩序維持の要として訴訟を重視し、好んで自ら裁定した。ある意味では、父をも越えようとしていたのかもしれない。
 彼の治世は身内を含む様々な討伐・粛清で彩られている。治世前半には義満時代に討伐されていったんは勢力を失った大内氏を使って九州の守護大名を攻撃した。また自らかつて天台座主を務めた延暦寺にも介入、攻撃した。
 治世後半期における最大の事績は最大の身内であった鎌倉公方足利持氏を討伐し、鎌倉府を解体に追い込んだ永享の乱であるが、これについての詳細は持氏を取り上げる次回に回すことにする。
 義教は、かねてより有力守護大名家の家政にも好んで介入していたが、永享十二年(1440年)、播磨の有力守護大名・赤松氏に介入し、幕府長老でもあった時の宗家当主・赤松満祐を遠ざけ、庶流分家を優遇したことは、文字どおり命取りとなった。
 満祐とその子・教康父子は翌嘉吉元年(41年)、教康邸への将軍御成の機会を利用し、義教を暗殺したのである。突如独裁者を失った幕府は自失状態となり、権力の空白が生じたが、ようやく細川氏と山名氏の軍勢が赤松討伐に立ち上がり、赤松父子を討ち取り、秩序を回復したのであった。嘉吉の乱である。こうして、義教は恨みを買った敵対者に暗殺されるという「暴君」にふさわしい最期を遂げた。
 総じて、義教の血塗られた圧政は後の戦国大名のそれに似ており、戦国的常識からは必ずしも「暴君」とは言えないものだったが、戦国時代到来前の15世紀前半にあっては、いささか常軌を逸した暴政と見られたものであろう。同時に、守護大名がためらうことなく将軍を謀殺するというのも、後の下克上の時代を予感させる出来事であった。
 義教の突然の横死により、彼の幼少の嫡男・義勝が7代将軍に就くが、当然にも父のような親政は無理で、実権は管領細川持之が掌握した。しかし、義勝は嘉吉三年(43年)、在任8か月にして10歳で急死したため、続いて同母弟の義政が8歳で将軍に就くこととなり、義教の敷いた将軍親政は早くも崩れ去ったのである。