歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

外様小藩政治経済史(連載最終回) 

五 森藩の場合

 

(4)幕末廃藩
 幕末の森藩は、第10代藩主・久留島通明が病弱のため、異例にも叔父の通胤[みちたね]に譲位した嘉永五年(1852年)に始まる。通胤の藩主就任翌年にペリーの黒船来航があったが、その際、通胤は対応について(外様)諸藩の意見を聴取すべきことを具申した。
 通胤の時代には藩内に尊王論が浸透していたと見え、藩内から尊王藩士二名が脱藩する事件が起きると、如上の具申の件で幕府から不信感を持たれていたこともあり、通胤は重臣五人を辞任させることで、幕府への陳謝とした。
 通胤を継いだ長男の久留島通靖は自らが薩摩藩に接近して尊皇派に与し、藩論を早くに尊王論でとりまとめた。これは家臣の人員も少ない小藩ならではのまとまりであるとともに、保守的な佐幕派が多かった豊後内の諸藩の中でも際立っていた。
 森藩は大政奉還後、いち早く入京して新政府側に立つとともに、西国筋郡代佐幕派要人・窪田鎮勝[しげかつ]が筋郡代代官所を放棄、撤退すると、これを占領し、豊後では最大藩であった岡藩(中川氏)とともに警備任務に当たった。
 西国筋郡代が管轄する地域は幕末には九州の幕府直轄地の八割を占め、西国筋郡代は幕府の九州支配の要でもあったから、西国筋代官所の警備任務を任された森藩は新政府からも信任される存在であったことが窺える。
 結果的に最後の藩主となった通靖はいったんは藩知事に任命されるが、廃藩置県で免官された後、明治十二年(1879年)に29歳で早世し、跡は病弱な長男に代わって、弟の通簡[みちひろ]が継いだ。近代久留島氏となった本家は子爵を授爵され、華族に列せられた。
 ちなみに、近代児童文学者として知られる久留島武彦は最後の藩主・通靖の孫に当たるが、如上の事情から本家ではなくなっている。本家は第二次大戦後、困窮し、現当主の久留島通利氏は中学卒業後、労働者となり、苦学の末に実業家として身を立てたという(外部記事)。