歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

松平徳川女人列伝(連載第11回)

十七 浄円院(1655年‐1726年)/覚樹院(1697年‐1777年)

 浄円院と覚樹院は、それぞれ8代将軍徳川吉宗の生母と側室として、吉宗とゆかりの深い女人である。特に浄円院は吉宗の生母として、徳川宗家から紀伊徳川家への実質的な「政権交代」を象徴する人物である。
 本名をお紋といった彼女は当初紀伊徳川家の大奥に出仕し、湯殿番として奉公していた際、当時の紀伊藩主で吉宗の実父・徳川光貞に見初められて側室・由利の方となり、吉宗を産んだとされる。吉宗を産んだ時、すでに当時としては「高齢」の30歳近くになっていたことからしても、かなり下積みの長い女中であったと見られる。
 公式系譜上、由利は畿内の古代豪族・巨勢氏の流れを汲む紀州藩士の娘とされ、吉宗は将軍就任後、当時の封建的慣習に従い、報償として彼女の弟や甥まで召し出して旗本に取り立てているが、かなり高年で湯殿番をしていた経歴から見て、武家出自とは考えにくい点がある。
 その点、別伝として、巨勢氏は養家であり、真の出自は江州彦根の医者の娘で、彼女が少女の頃、藩が禁止していた絹布の着物を着て追放刑となり、母とともに紀伊まで流れてきたところ、母が発病し寺の前で行き倒れになっていたのを住職に助けられ、その後、お紋は巨勢氏の養女となったというものがある。
 これはいささかドラマ仕立ての別伝でその信憑性のほどは不明であるが、由利の経歴からすると、他領からの流れ者だったかどうかはともかくとして、かなり低い町人出自であった可能性は大いにあろう。
 そのためか、光貞の没後に落飾して浄円院を号した由利の方は、息子の吉宗が将軍に就任した後、江戸城に呼び寄せられても、大奥で力を振るうことなく、生涯慎ましやかな暮らしに徹したようである。

 
 一方、覚樹院は本名を久免[くめ]といい、紀州藩士の娘で、和歌山城時代から浄円院付きの女中として奉公していたところ、吉宗に見初められて、側室となった。その結果、浄円院とは義理の親子関係となった。
 彼女は享保六年(1721年)に吉宗の長女を産むが、娘は翌年に夭折した。男子を産むことはなかったとはいえ、将軍生母・浄円院との縁から言っても、長生した久免の方が大奥で力を持ってもよさそうなものであったが、そうはならず、彼女も当時としては例外的な80年近い生涯を慎ましやかに過ごした。
 これは本人の性格もあろうが、吉宗の政策としても、先代の幼年将軍・家継の時代に大奥が権勢を張り、政治的発言力をも強め、吉宗自身の擁立にも裏で関与したことに鑑み、意識的に大奥を抑制したことも影響しているだろう。
 実際、吉宗から家重、家治までの親子孫三代の時代の大奥は、側室の人員も少なく、その権勢も削がれていたため、この時代には特筆すべき事績やエピソードを持つ女人は輩出しなくなり、ある意味では全員が浄円院のような人物であった。