歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版足利公方実紀(連載第15回)

十九 足利義輝(1536年‐1565年)

 足利義輝は、12代将軍義晴の嫡男として、天文十五年(1546年)、11歳で将軍位を譲られた。しかし当時は義晴が近江に避難中であったため、就任式も近江で執り行われた。実権は義晴が死去する同十九年(50年)までは父が保持していた。
 義晴は前回見たように、細川晴元配下から下克上により台頭した三好長慶との抗戦の最中、病死したのであった。父の死後、自立した義輝は長慶討伐と和睦の可能性を天秤にかけていたようだが、結局、強大な軍事力を持つ長慶を討伐することはあきらめ、永禄元年(58年)、六角氏の仲介で長慶と和睦し、ようやく京都に落ち着くことができた。
 将軍としての義輝は、父と同様、決して無能ではなく、地に墜ちていた将軍の権威を回復することに努めたが、時代状況がそれを許さなかった。長慶は和睦後、形式上は将軍の臣下たる御相伴衆編入されたが、彼はそうした従属的な地位に甘んじてはいなかった。
 長慶は晴元を最後に没落した細川管領家に代わって幕府の実権を掌握したため、以後の体制は三好政権と称されることもある。三好氏は信濃源氏の一族小笠原氏庶流で、本来の所領は阿波にあったが、次第に勢力を増し、長慶の頃には畿内一円も勢力圏に収める大大名に成長していた。
 そのため、長慶を信長に先立つ最初の下克上的戦国天下人と評する向きもあるが、これにはいささか過大評価が含まれている。長慶の勢力の大きさは認められるが、上述のように将軍義輝も決して長慶の傀儡的な地位に満足せず、独自に戦国大名の統制を図り、張り合ったため、長慶の下克上はさしあたり幕府機構内部で主家の細川氏を凌駕したことにとどまっていたからである。
 従って、長慶自身が死去するまでは、義輝と長慶の主導権争いの時代とも言える。それに加え、長慶存命中から三好氏自体の衰亡も始まっていた。永禄四年(61年)に実弟三好政権確立の功労者でもあった十河一存〔そごうかずまさ〕が急死し、同六年(63年)には嫡男で武将としても有能だった一人息子義興も失った。
 こうした一族有力者の死の空隙を突いて、反三好勢力の攻勢が強まったが、これを撃退する中で、長慶腹心の松永久秀の権勢が増大する。出自不詳の久秀は、いかなる経緯でか三好氏の家宰に納まり、一代で立身した典型的な戦国大名であった。
 最晩年の長慶は失意の中で精神にも異常を来たしていた形跡があり、すでに執権者として機能しておらず、永禄七年(64年)には自らも病没してしまう。これを奇禍として、義輝は将軍親政体制を再構しようと立ち上がるが、これに立ちふさがったのが「三好三人衆」であった。
 三好三人衆とは、三好氏一門の三好長逸〔ながやす〕・三好宗渭〔そうい〕と岩成友通の三人であったが、かれらは長慶の養子として家督を継いだ義継(十河一存の子)が若年のため、これを後見する形で実権を握った集団指導陣であった。
 野心家の彼らは久秀の子久通と共謀したうえ、永禄八年(65年)、義輝を二条御所に急襲、暗殺するクーデターに出た(永禄の変)。室町将軍が臣下に暗殺されるのは、6代義教の「嘉吉の変」以来二例目である。室町幕府における将軍の存在の軽さを改めて露呈した事件であった。