歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

松平徳川女人列伝(連載第4回)

六 雲光院(1555年‐1637年)/英勝院(1578年‐1642年)
 
 
徳川家康の数多い側室の中には、子を産むよりも、奥向きの実務で手腕を見せた人もいる。その代表格は、雲光院である。阿茶局とも称されるが、同じく側室の茶阿局と紛らわしいため、出家後の法号雲光院で呼ばれることが多い。
 雲光院は武田氏家臣の娘で、武田氏没落後、いったんは今川氏家臣に嫁ぎ、今川氏も没落した後、どのような経緯でか、家康の目に留まり、側室となったとされる。
 彼女は戦場にも随行したというから、家康に相当寵愛されていたようである。しかし、陣中で流産した後は結局、家康との間に子は産まれず、生母・西郷局を失った世子・秀忠の養育に当たり、最終的には奥向きを任される立場となった。
 もっとも、雲院院は江戸開府後も駿府に残り、江戸に移ったのは家康没後のことであるから、江戸城後宮に当たる大奥の実務には携わっていない。しかし、秀忠の娘・和子の入内に際して守役を務めるなど、家康没後も城外にありながら、将軍の実質的な養母的立場として権威を保ち、秀忠没後まで存命した。
 
 雲光院のような女官型の側室としては、もう一人、英勝院がいる。英勝院の出自も武家であることはたしかだが、定説を見ない。ただ、元は後北条氏家臣だった太田重正の妹とされ、甥に当たる太田資宗を養子にして譜代大名に出世させるなど封建的なネポティズムを成功させている点から、太田氏出自の可能性が高い。
 いずれにせよ、英勝院は10代前半から徳川家の女中奉公に上がり、その過程で家康の目に留まったと見られる。雲光院と同じく、戦場にも随行し、関ケ原大坂の陣では男装して騎馬したというほど、女性戦士という一面さえあったようである。
 英勝院は家康最後の子となる市姫を産んだが、市姫は4歳で夭折、その後は子に恵まれなかった。結果英勝院も雲光院と同じく、奥向きの実務で手腕を発揮した。家康没後は落飾しながらも影響力を残し、未整備だった大奥の実質的な主宰者として、存命中は大奥制度の創設者と目される春日局より上位にあったと見られている。春日局につなぐ先達の役割を果たしたのが、英勝院だったと言えるかもしれない。
 
七 養珠院(1577年‐1653年)
 
 
家康側室の中で最も長生したのは、家康曽孫に当たる4代将軍・家綱の代まで存命した清雲院(1581年‐1660年)であるが、それに次ぐのが養珠院である。彼女は生母の再婚家で後北条氏家臣の蔭山氏の一族となるも、主家没落後、蟄居中のところを後の韮山代官家始祖となる江川太郎左衛門の養女として家康の側室に加わった。
 このような経緯は後北条氏家臣から徳川氏に寝返った江川氏による家康への女性献上のような恰好であり、養珠院としては本意でなかったかもしれないが、封建的な女性献上の習慣には逆らえなかった。しかし、彼女は信仰の問題ではあえて家康に逆らったことがある。
 事の発端は、養珠院出自の蔭山氏の宗派でもあった日蓮宗身延山法主・日遠が家康の逆鱗に触れ、処刑されかけたことである。この時、日遠を師と仰ぐ養珠院は命をかけて助命嘆願し、日遠が処刑されれば自らも自害すると迫り、家康を翻意させたのであった。このような挙に出た側室は他に見られず、養珠院の信仰の強さを窺わせるエピソードである。
 家康が養珠院の強硬な抗議を聞き入れた理由として、彼女が後に紀伊徳川家始祖となる頼宣、水戸徳川家始祖となる頼房の生母だったことが影響したかもしれない。養珠院は後のいわゆる御三家のうち二家の始祖の生母であり、8代将軍吉宗以後は紀州家が将軍家となり、最後の将軍慶喜も水戸家の出身であったことにより、図らずも後期徳川将軍家全体のまさしく母体となった人物である。
 ただ、存命中の養珠院は雲光院や英勝院とは全く異なるタイプの側室であり、実務で手腕を発揮するようなことはなく、家康晩年の二人の男子の生母として、二番目の正室朝日姫豊臣秀吉妹)亡き後、正室不在の中で、事実上の正室に近い立場にあったと思われる。