歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

欧州超小国史(連載第5回)

Ⅰ サン・マリーノ至穏共和国

 

(4)近世サン・マリーノのはじまり
 17世紀前半に教皇保護国という形で国際法的にも独立国家として確定したサン・マリーノであったが、辺鄙な山岳国家ゆえに経済的には振るわず、17世紀から18世紀にかけては移民の続出や有力家系の断絶などで斜陽化する困難な時代を迎えていた。
 そうした弱体化に付け込んだものか、1739年10月、ローマ教皇に任命されたラヴェンナ総督のジュリオ・アルベロ―ニ枢機卿(軍人でもあった)が、軍を率いてサン・マリーノに侵攻・占領し、新憲法の制定やサン・マリーノの教皇領帰属を強制するという暴挙に出た。
 これに対して、サン・マリーノ人は市民的不服従の非武装抵抗で臨むとともに、時の教皇クレメンス12世への請願を通じて解放闘争を展開した結果、教皇は―元来、占領は教皇の意思ではなかったこともあり―、―1740年2月に独立を承認し、解放された。
 この歴史上三度目となる外部勢力による占領体験は、結果として、弱体化していたサン・マリーノ人の結束を再び強め、共同体を取り戻すきっかけになったようである。それが証明されたのは、およそ半世紀余り後、ナポレオンによるイタリア遠征渦中のことである。
 1796年、フランスから反逆罪で告発されていたリミニ司教がサン・マリーノに逃亡してきたことに対し、フランスが逮捕と引き渡しを要求してきたのである。拒否すれば、フランス軍に侵略される恐れもあった。この難局に対処したのが、サン・マリーノの有力政治家で執政官も務めたアントニオ・オノフリである。
 彼はナポレオンと巧みに交渉し、サン・マリーノの主権尊重を認めさせることに成功し、かえってサン・マリーノ市民の納税免除や小麦の支援、カノン砲の配備(未実現)といった特典まで引き出してみせたのである。こうしたナポレオンの厚遇の背景には、サン・マリーノの共和制の国是がフランス革命の精神にも通ずるところがあったからとも言われる。
 最終的に、サン・マリーノは1797年にフランスと教皇領の間で締結された和約(トレンティーノ条約)の中で独立が認められ、さらにはナポレオン没落後の国際秩序を協議した1815年のウィーン会議でも引き続き独立が確認された。これは、現代につながる近世サン・マリーノの新たな出発点ともなった。