歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

日光街道宿場小史(連載第3回)

三 越ケ谷宿

 

(1)由来
 平安時代に興った武蔵七党の一党である野与党が割拠した地で、平安時代から野与党一族の古志賀谷氏が定住、鎌倉時代に地頭に補任された記録もあり、元来は「古志賀谷」と表記したようである。

 

(2)開発史
 戦国時代になると、越ケ谷には信濃の小笠原氏家臣で、後に後北条氏家臣に転じた会田氏が定住支配し、土豪として開発を進めた。会田氏が本陣を担う越ヶ谷宿は江戸幕府の成立後間もなく奥州街道宿場に取立てられ、会田氏は屋敷を徳川家康の放鷹時の宿所となる越ケ谷御殿に差し出すほど幕府と縁が深かった。一方、越ヶ谷の伝馬上の助郷村として越ケ谷から元荒川をはさんで対岸にある下総国の大沢宿も併存していた。非効率を避けるため、越ヶ谷と大沢の惣百姓大評定により安永二年(1773年)に伝馬業務の合体が決まると、翌年には越ヶ谷宿本陣も越ヶ谷の会田家から大沢の福井家へ移転した。これ以降、越ヶ谷宿の町場は、越ヶ谷に商店が集中、大沢に旅籠が集中するという分散構造となり、実質上は「大沢宿」であった。

 

(3)最盛期
 天保期には本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠40軒余りを数えた。旅籠数は一つ手前の草加宿より少ないもの、脇本陣と同等の格式を持つ幕府指定の御用旅籠が16軒もあり、越ケ谷宿が幕府からも重視されていたことが窺える。ちなみに、将軍専用の越ケ谷御殿は明暦三年(1657年)の江戸大火による江戸城焼失に際し仮殿として江戸城二の丸に移築されたが、越ケ谷と将軍家のゆかりは越ケ谷宿の格式として後世まで残されたのかもしれない。

 

(4)後史
 元来、越ケ谷と大沢の合併は伝馬の機能合併であり、町としては分割されたまま、明治維新後は、埼玉県越ケ谷町と大沢町に分割された。明治三十二年(1899年)には東武鉄道が開通するが、最初の越ケ谷駅は大沢町内に設置され(現・北越谷駅)、宿場のあった大沢側の開発が先行した。戦後の昭和五十四年(1954年)に至り、近村も含めた大合併によって越谷市が発足した。

 

(5)現況
 合併後の越谷市は、草加市と並び東京近郊圏のベッドタウンとなるが、大規模団地を中核に発展した草加市と異なり、一般住宅地・商業地としての開発が進んだ。20世紀末に人口30万人を超え、平成二十七年(2015年)には中核市に移行した。