歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

日光街道宿場小史(連載第2回)

二 草加宿

 

(1)由来
 地名としての文書初見は天正元年(1573年)のことで、戦国時代には成立していたことが窺える。語源については、砂地を意味する「ソガ」の転訛とする説がある。しかし「ソガ」を固有名詞と見るなら、古代豪族蘇我氏の地方所領に見られた「蘇我」「曾我」「宗我」などの地名と同系の可能性もある。

 

(2)開発史
 徳川幕府開府初期の慶長八年(1603年)に幕府直轄領とされた。元来は湿地であったが、江戸時代最初期の関東代官頭となった伊奈忠次の計らいで草加の地に流れ着いた小田原の後北条氏遺臣を出自とする地元土豪の大川図書が幕府の許可を得て埋め立て工事を主導し、千住宿から直行できる街道を整備した。その後、千住宿と次の越ケ谷宿をつなぐ中間宿として宿場町が開かれ、寛永七年(1630年)の幕府公認を経て、元禄期以降、周辺九か村共同の組合宿として確立された。

 

(3)最盛期
 天保期には、本陣及び脇本陣が各1軒、旅籠67軒、人口3600人余りを擁した。旅籠の数では千住宿より多いが、大半は中小規模であった。本陣は宝暦年間まで大川氏が務め、その後は清水氏に引き継がれたが、本陣家交代の経緯は不明。大川氏はその後も分家を含め地元土豪として存続し、明治時代初期にはその屋敷が明治天皇の行在所として使用された。ちなみに、地元名産品となった草加煎餅は、農村組合宿の利を生かし、米を蒸して塩焼きにしたものを軽食として旅人に提供したことで地場産業化した。

 

(4)後史
 草加宿と周辺農村域は明治維新後、埼玉県に編入され、明治二十二年(1889年)に草加町となった。東武鉄道が開業すると、明治三十二年(1899年)に草加駅が設置された。とはいえ、町制施行後も長らく実質上は農村地域であったところ、第二次大戦後、境界を接する東京都へ通勤する勤労者向けの住宅整備計画の一環として大規模な公団団地が建設されたことを契機に宅地開発が進み、ベッドタウンとして発展した。

 

(5)現況
 東京のベッドタウンとしての人口増が続き、2022年末時点で人口約25万人の中規模都市となっている。2004年には法定人口20万人以上の政令市に指定されたが、同制度廃止に伴い施行時特例市となり、中核市への移行検討状態にある。