第18話 シャルロット・コルデー
フランス革命期のノルマンディーが生んだ著名人としては、暗殺者シャルロット・コルデーが異彩を放っている。コルデーはやはりノルマンディー出身の劇作家ピエール・コルネイユの子孫に当たる旧家の出だったが、母と死別後、修道院に送られた。
しかし、フランス革命が宗教界にも及び、修道院が閉鎖されたのを機に還俗し、叔母のもとに身を寄せる中で、革命勢力内の穏健派であったジロンド派に共鳴し、同派人士と交流するうちに同派の支持者となる。
そもそもノルマンディー地方はノルマン人の入植以来、封建的な気風の色濃い保守的な風土であり、革命の波が寄せてきたときも、急進的な山岳派には否定的で、穏健なジロンド派の拠点となった。
ジロンド派の支持基盤はブルジョワ商工業者であり、政体として連邦主義を提唱していた点で、商工業が発達し、かつノルマンディー公国亡き後も自治の気風が強く、中央集権主義に否定的なノルマンディー地方がジロンド派との結びつきを強めたことには必然性があった。
革命当初は政権も担ったジロンド派が山岳派に敗れて政権を追われると、ノルマンディーにはジロンド派の幹部が避難してきたが、その中にはノルマンディー出身のフランソワ・ビュゾーもいた。彼はエヴルー出身の法律家で、革命当初の三部会にも参加した古株であったが、革命議会の国民公会では山岳派の恐怖支配に反対する急先鋒となっていた。
同じ頃やはりノルマンディーに避難してきたジロンド派幹部に、シャルル・バルバルーがいた。彼はマルセイユの豪商の出で、ノルマンディーと縁はなかったが、この地でコルデーと出会い、恋愛関係にあったとも言われる(異説あり)彼女に影響を与えた。
ビュゾーらジロンド派は1793年5月から山岳派に対して武装蜂起した。これが連邦主義者の反乱とも呼ばれる事変で、ノルマンディーはその重要拠点となった。蜂起の渦中、コルデーは単身パリに乗り込み、山岳派の大物で病のため自宅で薬用風呂にいたジャン‐ポール・マラーを暗殺したのであった。
これはコルデーの個人的犯行と見られているが、山岳派はジロンド派による組織的暗殺と宣伝し、同派弾圧と恐怖政治強化の口実とした。コルデーは革命裁判により断頭台へ送られた。ジロンド派の蜂起も失敗に終わり、ビュゾーは自殺、バルバルーも断頭台に消えることとなった。