歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

欧州超小国史(連載第7回)

Ⅰ サン・マリーノ至穏共和国

 

(6)近代化と民主化の転機
 1815年ウィーン会議で正式にサン・マリーノの独立が再確認された後、イタリアが1862年に念願の統一を果たした際も、サン・マリーノは統一イタリアに参加することは選択せず、友好条約により独立を保持した。
 こうして、統一イタリアに囲まれる形で改めてサン・マリーノ共和国が成立し、これ以降はサン・マリーノにとっても近代化の時代となる。しかし、その歩みは内陸の超小国にとって、平坦ではなかった。
 まず、19世紀末から20世紀初頭にかけて経済的な困難に見舞われた。元来、圧倒的に農業主体で産業基盤もないため、大国となったイタリアに囲まれつつ、サン・マリーノが近代国家として経済的に自立していくことは困難であった。
 そのため、この時期、多くの国民がイタリア各地へ、さらには西欧から南北アメリカへと移住していき、シチリアなどイタリア南部と並び、サン・マリーノはイタリア半島からの代表的な移民送出地の一つとなった。
 一方で、この時期は、近代的な法制度の整備や医療・教育制度、さらに郵便・通信制度など、小さいながらも近代国家としての諸制度が導入された近代化の時代でもあった。
 また、遅ればせながら芽生え始めた労働者階級のために公的な互助組織として相互扶助協会が設立されたほか、1892年には社会主義政党としてサン・マリーノ社会党も結成されるなど、脱農業化の動きが見られたのもこの頃である。
 しかし、政治的には本来の最高機関である大総評議会が何世紀にもわたり開催されず、有力家族の家長による寡頭制支配が続いていたところ、20世紀に入ると、社会党の要求により、300年ぶりに大総評議会が開催されることとなった。
 曲折を経て1906年5月に招集された評議会には1477家長のうち805人が参加し、(Ⅰ)従来の寡頭制を維持するどうか、(Ⅱ)評議会の議席配分を地区ごとの人口に比例させるかどうかが問われた。これは、寡頭制を維持するかどうかの実質的な国民投票であったが、結果は(Ⅰ)が圧倒的多数で否決、(Ⅱ)が圧倒的多数で可決であった。
 これにより寡頭制が廃され、比例代表的な選挙制度に基づき、同年6月に史上初の総選挙が実施された。この選挙は家長と大卒者のみが投票できる制限選挙であったが、サン・マリーノにとっては民主化への礎石となる第一歩であった。