歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(10)

[E:three] 社会主義革命と内戦

[E:night]革命からソ連軍事介入へ
 アフガニスタンの1973年共和革命から78年の社会主義革命までの過程を見ると、ロシア革命の経過とよく似ている。第一次73年革命がロシアでは帝政を打倒した2月革命に相当するものだとすれば、第二次78年革命がボリシェヴィキによる10月革命である。
 異なるのは、第二次革命以降の経過である。78年中に言わばメンシェヴィキに相当する旗派を排除して全権を握った人民派であったが、今度は人民派内部で主導権争いに陥る。トップのタラキー革命評議会議長(PDPA書記長)に対して、ナンバー2のアミン外相が反旗を翻したのだった。
 元来、78年革命もアミン主導で実行されており、アミンには一定の実務能力が認められたが、タラキーは教条主義的なうえ、健康問題も抱えていた。二人の亀裂は深まり、タラキーがアミンの左遷を画策しようとした時、アミンが先制攻撃に出てタラキーを殺害、実権を掌握した。78年の革命からわずか一年余りである。
 このように、10月革命後レーニンを中心に結束を固めたボリシェヴィキとは異なり、アフガニスタンの革命家たちは内紛を抑えることに失敗した。新たなアミン政権は集団指導制を打ち出し、革命直後から開始されたイスラーム保守派の反革命蜂起を慰撫しようと、イスラーム信仰の尊重を認めた。対外的にも後ろ盾ソ連との関係を相対化し、隣国イランやパキスタンとの関係構築に動き、アメリカとの関係改善さえ模索しようとしていた。
 こうした穏健化路線でアミンは大衆的人気と党内基盤を確立しようとしていたものと思われるが、アミンの親西側路線はソ連の不信感を強めていった。もともとタラキーの排除にも批判的だったソ連はアミン排除の介入計画に着手する。
 79年12月、ソ連軍特殊部隊がアフガニスタンに侵攻し、アミン政権を転覆、アミンは殺害された。嵐333号作戦と名づけられたこの軍事介入は綿密に計画されたものであったため、アメリカをはじめとする西側陣営は激しく非難した。
 冷戦期のアメリカはソ連以上に同盟国への軍事介入を積極的に行なっていたから、この非難は笑止であったが、ソ連アフガニスタン介入は収まりかけていた冷戦を再燃させる20世紀晩期の大事変となった。
 一方で、ソ連がここまで西アジアの一途上国にすぎないアフガニスタンに深入りした理由も不可解だが、すでに中央アジア一帯を領土に取り込んでいたソ連としては、中央アジアに接続するアフガニスタンを戦略的要衝として確保し、東のモンゴルのような衛星国として傀儡化しようという戦略的な意図があったとも考えられる。
 軍事介入後のソ連はタラキーとアミンという二大指導者の相次ぐ死で凋落した人民派に見切りをつけ、元来は穏健派の旗派擁立策に切り替えていた。そのため、人民派政権によりチェコスロバキア大使に左遷されていた旗派指導者のバブラク・カルマルを呼び戻す形で、新政権のトップに据えた。そのため、この軍事介入以降のPDPA政権は旗派政権となる。
 しかし、旗派のプログラムはもともと革命を時期尚早とするものであっただけに、ソ連の介入によって突如革命政権を率いることには無理があった。カルマル政権は民主改革と一党支配の間を中途半端に漂い、一方でイスラーム勢力の武装抵抗の拡大と泥沼の内戦化を抑え切れなかった。このことは、ソ連の不満を次第に高めていったであろう。