歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

もう一つの中国史(連載第11回)

四 西方諸民族の固有史

 

(2)オアシス都市国家群の盛衰
 月氏が西域で優勢だった頃、より西のタリム盆地オアシスにも、著名な楼蘭(クロライナ)をはじめとする小さなオアシス都市国家群が成立していた。これらの諸国家の起源や民族・言語系統はいまだ解明されていないが、言語的には、おおむねトカラ語地域だったと推定される。
 これらのオアシス都市国家群は月氏を駆逐した匈奴が優勢になると、匈奴の勢力圏に組み込まれたと見られるが、やがて前漢匈奴を追い詰めて西進してくると、諸国は漢と匈奴に両属するバランス外交で防衛するとともに、東西シルクロード貿易の利益も享受した。
 しかし、前77年、漢は西域筆頭国の楼蘭に干渉し、親漢派の王に立て替えたうえ、国名も鄯善国に強制改名させた。以後、鄯善は漢の傀儡国家の地位に置かれるとともに、西域全域が西域都護の統制に置かれた。
 とはいえ、西域諸国が完全に独自性を喪失したのではなく、前漢末期から後漢草創期の混乱を突いて鄯善は再び独立性を回復し、最盛期を築く。この時期には、他にも于闐(後述)、車師、亀茲、焉耆[えんき]といったオアシス諸国家が勢力を張った。
 しかし、後漢の体制が安定すると、後漢による西域支配が強まり、西域諸国は再び後漢の統制に下るが、後漢の西域支配は前漢ほどに強力でなく、鄯善の繁栄は3世紀頃までは続く。
 鄯善をはじめとする諸国は2世紀頃から、伝統的なトカラ語に代えてガンダーラ語のようなインド系の言語を公用語として採用し始める。この言語転換の要因については諸説あるが、仏教を通じて北インド方面の文化が強く刻印されたことは間違いないだろう。
 中原が南北朝時代に入ると、鄯善は衰微し、445年、強勢化した北魏によって占領され、滅亡した。他方、しばしば鄯善と争っていた于闐(ホータン)—言語的にはイラン系と見られる—は南北朝時代を通じて命脈を保ち、やがて西域に進出してきた唐に服属する。
 ちなみに、隋・唐初期の時代には唐の建国に貢献した凌煙閣二十四功臣の一人に数えられる尉遅敬徳や画家として著名な尉遅跋質那・乙僧父子のように尉遅姓の人物の活躍が散見される。
 このうち尉遅敬徳らはモンゴル系と見られる鮮卑族出身とされるが、尉遅跋賀那・乙僧父子はホータン出身とされるように、この尉遅姓はホータンの王姓ヴィジャヤの転写と見られ、王家に直接連なるかは別としても、尉遅姓は本来ホータン人の可能性が高い。
 このように西方の大乗系仏教国として隆盛を誇ったホータンも、唐への服属を経て、8世紀末までに、唐をも凌ぐほどに強勢化してきた吐蕃チベット)の支配下に組み込まれた。
 結局のところ、砂漠に点在するオアシス諸都市を領域的に支配する強国は現われないまま、他の西域諸国も唐の時代に唐に服属し、やがては西域で優勢となるイスラーム化したテュルク系民族の中に吸収同化されていき、現在の旧西域は新疆ウイグル人の拠点となっている。