歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

抵抗の東北史(連載第9回)

八 中世東北の抵抗

 奥州藤原氏が源氏によって滅ぼされ、東北も鎌倉幕府支配下に入ると、この地方にも源氏配下の東国武士が地頭職に任ぜられて赴任してきた。特に幕府の実権が執権北条氏に掌握されてからは、北条氏所領が増加し、北条氏被官から有力者が現れる。中でも安藤氏である。
 安藤氏は2代執権・北条義時陸奥守を兼任した際に、安藤五郎(または太郎)を「蝦夷代官」に任命したことを契機に奥州で同職を世襲する有力豪族に成長した一族である。蝦夷代官職の詳細はよくわかっていないが、その名称及び安藤氏の活動からすると、東北北部の旧エミシ領域の封建支配とともに、エミシがなお割拠していた北海道方面の踏査・渉外も委ねられた代官職と見られる。
 後に、安東氏→秋田氏と改姓し、最終的には主家・北条氏を越えて戦国大名・近世大名として幕末まで生き延びていく安藤氏は自ら安倍氏後裔を称したため、その真偽はともあれ、出自については奥州の土豪とする説が強い。しかし、北条氏被官として突如東北に出現した経緯からすると、本来は東国武士の出自と見たほうが自然である。
 史書ではないが、平安末期から鎌倉初期に編纂された仏教説話集『地蔵菩薩霊験記』に、武芸で名声を得た安藤五郎なる鎌倉武士が公命により蝦夷地に赴任し、夷敵を滅ぼし、貢納させたとあることから、同時代の民間にあっては安藤氏は鎌倉武士とみなされていたようである。
 この点で、通説とはなっていないが、駿河国北安東庄出身の北条氏被官で義時側近でもあった安東(安藤)忠家との系譜関係が注目される。この平姓安東氏自体の系譜も明確でないが、本貫地は安倍郡に属したことも、東北安藤氏の安倍氏の名乗りとの関係で意味深長である。ただ、東北安藤氏が奥州安倍氏の後裔を称したのは、滅亡から150年以上を経ても当地になお残る旧安倍氏の伝説的な威光を借りることが、支配上なお有効だったからとも考えられる。
 出自はどうであれ、安藤氏は東北に土着し、津軽の十三湊を拠点に道南地方との交易も掌握しつつ、広大な領域を統治し、元寇後の幕府権力の衰えとともに自立性を高めていくが、その象徴が1320年代に起きた安藤氏の乱である。
 この乱の直接的な契機は、時の蝦夷代官安藤季長とその従兄弟の季久の間での内紛にあったが、これに幕府・北条得宗家が介入し、蝦夷代官職を季長から季久にすげ替えた。これが裏目となり、不服の季長が幕府・得宗家に反抗し、内戦となった。幕府は間もなく季長を捕縛するが、季長派郎党の抵抗は続き、幕府は大軍を送って1328年にようやく鎮圧、講和となった。
 この乱の背景には、罷免された蝦夷代官季長が「蝦夷の乱」に適切に対処し切れなかったことがあるとされるが、混血系の新東北人が台頭してきた平安末期以降の東北地方に純粋の「蝦夷」(エミシ)はもはや残っておらず、ここで言う「蝦夷の乱」とは新東北人の中でも比較的旧エミシの血を濃く引く被支配層に属した者たちが、安藤氏の収奪に対して起こした一揆的反乱を意味するものであろう。
 ともあれ、御内人に背かれ、鎮圧に手間取った安藤氏の乱は鎌倉幕府の凋落を加速する要因ともなり、実際、幕府は乱の鎮定からわずか5年後には滅亡するのである。
 一方、自立勢力としての性格を強めていた安藤氏は幕府滅亡と運命を共にすることなく、津軽を拠点とし続ける下国家と秋田に移住した上国家の二家に分立しながらも、南北朝時代を生き延びていく。