歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版琉球国王列伝(連載第9回)

 尚豊王(1590年‐1640年)/尚賢王(1625年‐1647年)/尚質王(1629年‐1668年)

 薩摩による侵攻・征服当時の尚寧王は世子を残さず、1620年に苦難の治世を終えて没した翌年、王統は再び本家筋に戻り、5代尚元王の孫に当たる尚豊王が即位した。彼は約20年在位したが、この間、薩摩藩から王号を剥奪され、琉球国司に落とされるなど屈辱的な待遇を受けた。
 結局、彼は薩摩藩の傀儡のまま世を去り、世子の尚賢が後を継いだ。尚賢の治世はおよそ6年と短いものだったが、彼の治世では後に琉球の主産業となる黒糖やウコンの専売制度が導入されるなど、農政面では一定の治績を残している。また尚質王は、中国で明を打倒して新王朝を形成した清と引き続き冊封関係を結び、清から印綬されている。
 尚豊・尚賢父子の治世は薩摩藩の統制がまだ厳しい時代であったが、尚賢の後を継いだ王弟で10代尚質王の時代になると、薩摩藩の統制が一定緩和されてきた。そうした状況下で、尚質王は一連の改革を実行した。
 その実務を担ったのが、王族羽地御殿出身の羽地朝秀であった。彼は薩摩藩へ留学して学問を修めた後に帰琉し、琉球初の正史『中山世鑑』の編纂に当たった。こうした功績に加え、おそらくは後述する北谷恵祖事件(1663年)に介入してきた薩摩藩対策からも、尚質王の摂政に抜擢され、改革の全権を委ねられたのであった。
 彼は薩摩藩への留学経験から、確信的な親薩摩派であり、琉球人の祖は日本人であるとする「琉日同祖論」に立って琉球伝統の神道を懐疑し、最高神官として大きな権威を持ってきた聞得大君を王妃より下位に格下げする宗教改革を実施した。
 その他、朝秀は倹約による財政再建などの世俗政策も実施し、薩摩侵攻以来疲弊していた国力の回復に努め、尚質を継いだ尚貞王代初期の1673年まで摂政を続けた。
 こうして、尚質王代には薩摩藩の支配が一種の間接支配に変化する中で、琉球は一定の独自性を回復し、以後も200年近く存続していくのである。そこには対日迎合の批判も向けられながら、現実的な改革に努めた朝秀の功績も寄与したであろう。


三´ 島津光久(1616年‐1692年)

 島津光久薩摩藩初代藩主家久の嫡男で、2代薩摩藩主である。彼は幕命で幼少期を江戸で人質として過ごし、参勤交代の原型を作ったと言われるが、そのため父死去を受け急遽帰国し、若くして藩主に就任した後しばらくは藩政に動揺が続いた。
 さらに、幕府の鎖国政策転換により、薩摩藩が頼みとする貿易が著しく制約されたことは藩財政を圧迫した。活路を見出そうとした金山の発見・開発も幕府の妨害で断念せざるを得ず、窮地に陥った。彼の治世で琉球支配が緩んだのも、こうして光久が藩運営に苦慮していた結果と言えるかもしれない。
 もっとも、寛文七年(1667年)には、琉球が清に派遣した康熙帝即位の慶賀使恵祖一行が琉球人の賊に襲撃され、貢物を強奪された不祥事(北谷恵祖事件)には司法介入し、関係者を処断している。
 その他には光久の在位中、これといって見るべき事績は記録されておらず、彼が名を残しているのは大名による庭園造りの先駆けとも言える鹿児島の仙巌園を造園したことくらいである。
 ただ、光久は壮健だったらしく、当時としては相当の長寿である80歳近くまで長生し、子沢山でもあったことで不安定さを補強し、藩の存続を確保したのであった。嫡男には先立たれたが、貞享四年(1687年)には孫の綱貴に無事家督を譲り、隠居している。