十三 足利成氏(1438年or34年‐1497年)
足利成氏〔しげうじ〕は、永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏の遺児であった。乱による混乱からか、生年が確定していない。しかし、乱後の延長戦として起きた結城合戦で結城氏に担ぎ出されて敗北、幕命により殺害された二人の兄とは異なり、成氏は信濃源氏系の豪族大井氏のもとで庇護・育成された。
彼にとって転機となるのは、嘉吉の乱で時の将軍足利義教が暗殺されたことである。これを機に鎌倉府再興運動が開始された結果、幕府は再興を許可する。時の将軍義政がまだ幼少期で幕府の体制が固まっていなかったこともプラスに影響したものであろう。
こうして晴れて第5代鎌倉公方に就任した成氏であったが、自身まだ少年であり、実権は関東管領上杉憲忠に握られた。ところが、長じた成氏は父が敗死する原因を作ったのが憲忠の父憲実であることを根に持ち、憲忠への憎悪を露にするようになった。これは享徳三年(1455年)、成氏の命による憲忠暗殺という形で発現した。
これをきっかけに、またも鎌倉公方と上杉氏の内戦が勃発する。幕府が上杉氏を支援する体制も、永享の乱の繰り返しであった。そして、今度も優勢な上杉‐幕府方が鎌倉を制圧して勝利するはずであった。
ところが、成氏は鎌倉をあっさり放棄し、享徳四年以降、古河に移ってなおも抵抗を続けるのである。彼が鎌倉に執着しなかったのは、幼少期に鎌倉を脱出し、信濃育ちであったこと、迷わず古河に移ったのはこの地が鎌倉公方御料地として経済基盤となっていたことや、忠臣の小山氏や結城氏の拠点にも近いなどの戦略上の理由からであったと考えられる。
こうした成氏の専断に対して、幕府側も将軍義政の異母兄政知を新たな鎌倉公方に任命し、鎌倉に向けて出立させた。しかし、成氏軍に阻止され、鎌倉入りできず、伊豆の堀越で足止めされた。政知は結局、最後まで鎌倉入りできず、堀越に定住することとなったため、堀越公方と呼ばれるようになる。
こうして、関東は上杉‐幕府方の傀儡である堀越公方と古河公方間で二分され、内戦状態に突入するが、京都では間もなく応仁の乱が勃発し、幕府は関東に軍勢を割けなくなった。一方で、成氏も文明三年(1471年)の堀越公方攻めに失敗し、撤退するなど、両勢力とも決め手にかけ、内戦は膠着状態にあった。
文明九年(1477年)に応仁の乱が終結したこと、同八年(1476年)には上杉家家宰長尾氏の内紛に端を発する長尾景春の乱が発生して家中が混乱状態に陥ったことなどを転機として、和平の機運が高まり、文明十年(1478年)に上杉氏と古河公方、同十四年(1483年)には幕府と古河公方の和睦が順次成立し(都鄙合体)、発生から30年近くに及んだ内戦・享徳の乱はようやく終結した。
成氏の古河への移座は当初は暫定的な避難であった可能性もあるが、結局成氏は鎌倉へ帰還せず、古河を本拠とする初代古河公方の地位を確立し、以後は旧鎌倉府の後身として古河府が関東支配の拠点となり、「合体」よりも室町幕府と古河府の東西「分裂」が増すきっかけとなった。
そして、成氏がほぼその全生涯をかけ、応仁の乱よりも長い30年に及んだ享徳の乱は義政・義尚父子時代における室町幕府権力の失墜を象徴するとともに、全国に先駆けて関東に戦国時代をもたらしたという点で、画期的な内乱であった。