歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(12)

 社会主義革命と内戦

(8)ソ連軍撤退から政権崩壊へ
 1979年のソ連軍侵攻以来、PDPA政権は本来は非主流的な旗派が主導することになったが、最初のバブラク・カルマル政権は優柔不断な性格が強く、内戦終結への道筋を描くことはできなかった。他方、ソ連でも85年にミハイル・ゴルバチョフが新たな書記長に就任したことで、アフガン政策にも変化が現われる。
 ゴルバチョフは泥沼化したアフガニスタンからの段階的な撤退を構想していたため、アフガニスタンには自力で政権を維持できるより強力な指導者が必要と考えていた。そこでカルマルに代わる新指導者として白羽の矢が立てられたのが、ムハンマド・ナジブッラーであった。
 元来は医師であるナジブッラーも旗派の出身で、人民派の独裁期には亡命に追い込まれたが、ソ連軍侵攻後に帰国を果たし、カルマル政権下では秘密警察・国家保安局(KHAD)長官として政治犯の取締りに当たっていた。KHADはソ連KGBに匹敵する政治保安機関であり、ナジブッラー長官の下で同機関は肥大化し、大量人権侵害が断行されていた。
 ソ連がこのような恐怖の人物を抜擢したのは、ソ連アフガニスタン介入で中心的役割を果たしていたKGBとも直結する保安畑の人間なら強力な指導性を発揮できると計算されたからであった。実際、ナジブッラー政権は表向き国民和解と民主化を演出する一方で、自らを大統領に据えたPDPA体制は固守するという二重的な政策で巧みな滑り出しを見せた。
 新憲法の下、ソ連軍撤退の直前に行なわれた複数政党制に基づく議会選挙では、PDPAは下院で過半数を割り込んだが、協力政党との連立で政権を維持した。しかし、この選挙を反革命武装勢力ムジャーヒディーンはボイコットしたため、内戦の終結にはつながらなかった。
 一方、ソ連軍のアフガニスタン撤退は、アフガニスタンソ連に、パキスタンアメリカを加えて88年に署名された四か国間のジュネーブ協定に基づき、同年10月から順次開始され、翌年2月までに完了した。
 しかし肝心な内戦終結の見通しが立たず、かつナジブッラー政権が独力で体制を守り切るだけの軍事力を持たない中でのこの早期撤退は一方的なものでありすぎ、事実上はソ連がPDPAをほぼ見限ったことを意味していた。
 軍事的な後ろ盾を失ったナジブッラーはムジャーヒディーンへの懐柔策として、90年にはアフガニスタンイスラーム国家であることを明記した憲法改正及びPDPAのマルクスレーニン主義路線の放棄と祖国党への党名変更を主導したが、78年革命体制そのものの打倒を目指すムジャーヒディーン側には何ら通用しなかった。
 91年にはソ連自体も保守派クーデターの失敗を契機に解体されたうえ、新生ロシアのエリツィン政権がアフガニスタンへの経済援助の停止という最後通告を突き付けると、軍事作戦の展開にも支障を来たしたナジブッラー政権は命脈を絶たれる。92年3月、ナジブッラーは国連が提案する暫定政権への権力移譲を表明し、翌月、辞任した。
 こうして78年革命以来のPDPA体制は終焉したが、とにもかくにも15年近くにわたり統治してきた体制を内戦が終結する前に梯子を外す形で瓦解させたことは、その後のアフガニスタンの破滅的な混乱の元を作った。このことに関して、内戦に介入した米ソ、パキスタン及び紛争調停者としての国連の責任は重いと言えるだろう。
 一方、PDPAもロシア革命後のボリシェヴィキ政権のように結束して軍事力を固め、外国が干渉する内戦に勝利して体制を確立するだけの力量を持ち合わせてはいなかった。結局、PDPAはソ連の傀儡的代理政党としての地位を最後まで脱することができなかったのである。