歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(9)

 社会主義革命と内戦

[E:night]1978年社会主義革命
 前回触れたように、1973年の共和革命はイスラーム保守勢力を後退させ、マルクスレーニン主義の人民民主党(以下、PDPAと略す)が台頭するきっかけを作った。しかし、共和革命を主導したダーウード大統領は革命当初友好的だったPDPAを次第に遠ざけ、78年には弾圧に出る。
 弾圧の引き金を引いたのは、暗殺されたPDPAのさる有力なイデオローグの葬儀の場を借りた大規模な抗議集会だった。反政府暴動につながることを恐れたダーウード政権が弾圧に出たものと思われるが、政権の動きは鈍かった。
 一方のPDPA側は大弾圧による組織壊滅を防止すべく、軍部内の支持勢力と連携し、78年4月、クーデターに及んだ。このクーデターは短時間で成功し、PDPAが全権を掌握した。
 事前に入念に計画されていたように見えないクーデターがこれほど簡単に成功した理由は必ずしも明確でなく、背後にPDPAの後援者であるソ連が介在した可能性も否定できないが、軍部内にPDPAが相当に浸透していたことに加え、ダーウード政権が国民的な支持を受けていなかったことも一因であろう。
 実際、ダーウードはこのクーデターの渦中、家族もろとも無残に殺害されていた。ダーウード殺害の事実は当初伏せられていたが、後に当時の関係者により埋葬場所が明かされ、2008年に至って首都カーブルの集団墓地でダーウードらの遺体が発見された。このように前国家元首一家を秘密裏に「処刑」し闇に葬り去るやり方は、ロシア革命のアナロジーだったのだろう。
 こうしてマルクスレーニン主義を標榜する政党が政権を掌握し、国名も「アフガニスタン民主共和国」に変更したうえ、以後ソ連を後ろ盾に社会主義的政策を遂行していくことになるので、78年クーデターは社会主義革命の性格を持った。イスラーム主義が強い西アジアでは歴史上も稀有の出来事である。
 他方、PDPAを中心的に動かしていたのは、従来、支配層のドゥッラーニ部族連合に対し従属的な立場に置かれてきたギルザイ部族連合であり、社会主義革命の背後には伝統的な部族対立の構図も見え隠れしていた。
 とはいえ、一躍政権党となったPDPA内部も元来、段階的な革命を志向し、ダーウード政権に協力的な「旗派」と一挙革命を主張し、ダーウード政権に批判的な「人民派」とに分裂していた。この分裂はロシア革命当時のメンシェヴィキボリシェヴィキの対立に相似し、諸国のマルクス主義政党ではお馴染みの党内路線対立でもあった。
 この対立は革命前年の77年に表面上は解消され、党は再統一を確認していた。しかし78年革命を主導したのは人民派であり、初代革命評議会議長に座ったのも同派指導者の党書記長ヌール・ムハンマド・タラキーであったので、政権掌握後、両派の確執はすぐに表面化した。
 タラキー指導部は旗派を政権から追放したうえ、旗派がクーデターを計画したという理由で同派幹部らを処刑もしくは投獄した。こうして78年8月までにタラキーと事実上のナンバー2だったハフィーズッラー・アミン外相を中心とする人民派が主導権を確立する。