歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版足利公方実紀(連載第13回)

十六 足利政氏(1462年‐1531年)/高基(1485年‐1535年)

 足利政氏は、古河公方初代足利成氏から生前譲位を受けて2代古河公方に就任した。享徳の乱を戦い抜いて古河公方の地位を確立した父から有利な条件で家督を譲られたはずの政氏であったが、彼は継承者の役割を適切に果たすことはできなかった。
 まず延徳元年(1489年)の就任当時、すでに関東管領上杉氏の内紛に巻き込まれていた。上杉氏は享徳の乱の間は幕府方で結束していたものの、乱終結後は宗家の地位にあった山内上杉家とこれに対抗する扇谷上杉家の間に紛争が勃発した。この長享の乱は途中、扇谷家家宰・太田道灌の暗殺をはさんで長引き、永正二年(1505年)にようやく両家和睦に至った。
 これで一息ついたのもつかの間、翌永正三年(1506年)には成長した嫡男の高基が譲位を要求し、古河公方の地位をめぐって父子間で争いになった。これは、山内家当主の関東管領上杉顕定の調停により政氏留任の方向で和解した。
 しかし、その顕定が山内家自身の内紛で敗死すると、その後継者をめぐりまたも父子は対立、戦闘に発展した。曲折の末、永正九年(1512年)に至って高基は政氏を引退に追い込み、念願の公方の地位を手にした。
 政氏は本拠の古河城を退去し出家したうえ、久喜で余生を送ることになる。彼はこの久喜館に甘棠院〔かんとういん〕という臨済宗寺院を開いた。この寺院は、徳川時代になっても、最終回で述べる徳川氏の足利氏敬重策の一環として朱印地を与えられる格式をもって遇され、今日まで存続している。
 政氏は、正統的な公方‐関東管領体制の復活を構想していたとされるが、それにふさわしい政治的手腕に欠け、むしろ文化活動に傾斜していた。一方、政氏と争い続けた嫡男高基のほうは政治的野心に満ち、公方の地位に執着したが、やはり政治的手腕に欠け、晩年には自身の嫡男晴氏と争って、関東享禄の内乱を起こす始末であった。
 こうして成氏が一代で築いた古河府の基盤はその子と孫の代で早くも大きく揺らぎ、その弱みを突いて、やがて古河府を乗っ取ることになる後北条氏の関東進出が進行していくのである。

十七 足利義明(生年不詳‐1538年)

 足利義明は政氏の子で高基の弟に当たるが、嫡男ではなかったため、当時の慣習に従い、早くに僧籍に入っていた。しかし永正の乱で父兄が争うのを見て野心を起こしたらしく、出奔後、還俗して義明を名乗る。
 そこで甲斐源氏系武田氏から出た上総の支配者真里谷〔まりやつ〕氏の庇護を受け、その勢力拡大戦略に乗る形で、坂東平氏系千葉氏が拠っていた下総の小弓城を攻撃・占拠し、小弓公方を称した。これによって、兄が継いだ古河公方家は事実上分裂することになった。
 成立の経緯から小弓公方は真里谷氏の傀儡と思われたが、義明は野心家で、真里谷氏から独立して関東一円の支配者となることを夢見たようである。手始めに、彼は庇護者だった真里谷恕鑑が没すると、その跡目争いに介入して恕鑑の庶子ながら後継者に立てられていた信隆を追放して、弟の信応〔のぶまさ〕にすげ替えた。
 折から、後北条氏では早雲を継いだ北条氏綱が関東支配を狙い、鎌倉から江戸にも進出してきていた。氏綱は義明に追放された信隆を庇護し、さらに高基を継いだばかりの古河公方足利晴氏とも同盟して義明と対峙した。
 こうした状況下で、義明は自身の野望達成のためにも、氏綱打倒を決意、ここに天文七年(1538年)、第一次国府台合戦が勃発した。しかし北条軍二万に対し、小弓軍は一万と初めから劣勢だったうえ、小弓軍の参謀だった里見義堯らと作戦をめぐって対立し、義堯の裏切りもあって小弓軍は敗北、義明も戦死してしまう。
 こうして、元来自称にすぎなかった小弓公方は実質義明一代限りで滅亡したのだが、義明の子孫は絶えることはなかった。嫡男義純は国府台合戦で戦死したが、次男の頼純が里見氏の庇護の下に生き延びた。
 最終的には頼純の娘を側室に迎えた豊臣秀吉の承認の下、小弓公方の家系が足利将軍家嫡流断絶後の足利氏の実質的な宗家となり、喜連川氏と改姓した後、徳川氏によっても事実上の大名格で遇され、幕末まで続いていくことになる。
 義明自身はそうした子孫の運命を予想してはいなかったに違いないが、結果的には、この風雲児的な異色の傍流公方が足利氏の継承者となったのは、歴史の皮肉であった。