歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

日本語史異説―悲しき言語(連載第6回)

三 弥生語への転換①

 弥生時代は大陸、特に朝鮮半島から農耕をもたらした渡来勢力により拓かれたというのが定説となっている。この時、言語体系も大きく転換され、コリア語とも共通する膠着語的な構造が刻印され、現代の日本語にも継承されていると説かれる。
 膠着語は一般にいわゆるアルタイ諸語の通有性であるので、弥生語は縄文語とは異なる北方系言語であったことになる。ただし、語彙に関しては縄文語の南方的要素が継承されたので、語彙は南方系、文法は北方系という混成言語が日本語の特徴であるというのが村山説である。村山は弥生時代に刻印された北方的要素は満州語に代表されるツングース諸語に近いと解析している。

 これはすっきりした筋の通った有力な仮説ではあるが、言語寿命を考慮したときに古い先史言語である縄文語の語彙が現代まで継承されているとは考えにくい。それでもなお日本語に南方的要素が認められるとすれば、それは縄文時代よりも新しい言語要素ではないか。その場合、弥生語からの継承ということがさしあたり想定できる。
 そう考えると、弥生語=北方語という定式は放棄せざるを得ず、弥生語も縄文語とは系統を異にする南方語だったとみることになる。この点で、渡来系弥生人の故地を考えると、朝鮮半島南部から黄海をはさんで中国江南地方にかけての言わば環黄海地域が想定できる。
 この地域は北方というよりは南方であり、南中国とも連続した文化圏に属すると言え、弥生人も広くはこの圏域に含まれる種族だっだと考えることができる。実際、『魏志倭人伝』に記録された晩期弥生時代の倭(邪馬台国)の風俗をみると、文身のような南方的要素が濃厚である。文身は南中国の越のほか、朝鮮半島南部の古代国家馬韓弁韓にも共通して見られた風習である。
 とすると、この環黄海地域は南方系の言語文化を共有していたのではないかの仮説も成り立つだろう。この点、村山がコリア語の語彙にも南方的要素が認められる可能性を示唆し、将来の検討課題として指摘していたことは意味深長である。

 なお、『魏志倭人伝』は邪馬台国の言語の断片として、承知を意味する「噫」(あい)という語を紹介している。おそらくこれは弥生時代の言語として唯一記録に残されたものであろう。この語が現代語の承知表現である「はい」の祖形だとすれば、弥生語が現代まで保続されている可能性はかなり高いと言えるだろう。

 この弥生語の祖語となる南方系言語がいかなるものであったかを再構するのは困難な作業であるが、弥生人の故地は日本列島への渡海距離を考えれば朝鮮半島南部が最も近いので、やはり弥生語の祖語も主にこの地域で話されていたものであろう。この地域は紀元前3世紀頃に遼東半島方面から韓族が南下してくるまでは、別の南方系種族が先住していたと見られ、この未知の民族が保持していた言語Xが弥生祖語であった可能性が高い。
 ・・・といかにも漠然とした仮説ではあるが、現時点ではこの程度しか言うことができない。少なくとも、弥生語=北方系という定式を必ずしも絶対のものととらえる必要はないと思うのである。