歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第6回)

五 文宗・李珦(1414年‐1452年)/端宗・李弘暐(1441年‐1457年)

 世襲を基本とする君主制では、名君の長期治世の後に混乱が起きることは古今東西よくあることだが、世宗大王没後の李朝もその例外ではなかった。
 世宗は晩年健康を害していたため、存命中から長男の世子李珦が1442年以降、摂政として国政を代行するようになっていた。そのため、彼が50年の父王死去を経て円滑に王位を継承し、5代文宗となるが、文宗は不運にも在位わずか2年で病没してしまう。代わって、文宗の11歳の世子李弘暐が王位を継承し、6代端宗となる。
 しかし、年少のため、当然摂政を必要としたが、生母の顕徳王后は端宗を出産した直後に産褥死しており、後宮からの後見が期待できなかったため、父文宗は臨終の際に、世宗以来の重臣や学者に息子の補佐を遺言していた。ところが53年、文宗の弟で野心家の首陽大君(後の7代成祖)がクーデターを起こして、端宗側近団を殺害・排除し、実権を掌握した(癸酉靖難)。
 結果、首陽大君が集めた側近グループ(勲旧派)が国政を壟断し、55年には端宗を退位に追い込んだため、端宗は14歳にして上王の地位に退くことになった。しかし、57年、端宗の復位を図る六人の旧重臣(死六臣)を中心とした陰謀が未然に発覚すると、上王もこれに連座する形で魯山君に降格・追放のうえ、最終的に賜薬によって処刑された。
 こうして宮廷の策謀に巻き込まれ、わずか16歳にして処刑された悲劇の前国王魯山君は、没後241年後の1698年に至り、時の19代国王粛宗によって復位のうえ、端宗の廟号を追贈されたのであった。

六 世祖・李瑈(1417年‐1468年)/睿宗・李晄(1450年‐1469年)

 前述したように、世宗の次男首陽大君はクーデターによって甥の端宗を退位させて自らが7代国王に即位した。この経緯は後世、儒教的な道理に反する王位簒奪と解釈されるようになり、遠く17世紀末、19代粛宗の時に端宗の復位や「死六臣」の名誉回復もなされたのであった。
 とはいえ、当時としては世宗没後、不安定化した国政を強権をもって立て直したのは世祖であった。世祖の政策はほぼ父王のそれの継承発展であったが、クーデター政権の脆弱性を補強するためにも意識的に独裁的な恐怖支配を行なった。端宗復位事件に際しての関与者に対する残酷な拷問・処刑もそうした表れであった。
 独裁強化のため、父王の晩年に廃されていた国王による六曹直啓制を復活させ、王への権力集中を図った。一方で、いまだ完備されていなかった基本法典の整備にも注力し、吏典・戸典・礼典・兵典・刑典・工典の六典から成る「経国大典」の編纂を主導するが、さほど長くなかった治世の間に完成・公布されたのは戸典と刑典だけであった。とはいえ、これは民事と刑事に関する重要な法制度の整備を意味した。
 世祖は晩年、ハンセン病と見られる病気に侵され、死の前年には北辺の豪族・李施愛の反乱に見舞われるなど政情が不安定化する中、世子海陽大君に譲位したうえ、68年に死去した。在位13年余りと父世宗の半分にも満たない道半ばでの他界であった。
 後継者となった8代睿宗はまだ18歳と若く、母の貞熹王后が大妃(慈聖大妃)として摂政となり、勲旧派重臣とともに国政を主導した。朝鮮最初の垂簾聴政者となった慈聖大妃は首陽大君妃だった時にも夫を叱咤してクーデターを唆したと言われ、自らも政治に深く関与した女性であった。 
 しかし、睿宗政権は不安定化し、そのわずか1年余りの治世では筆禍事件や謀反事件などが立て続けに起こった。そうした中、睿宗は69年、19歳で死去してしまう。政情が再び安定に向かうのは、9代国王に擁立された世宗の早世した長男の子者山君が成長し、親政を開始した76年以降のことである。

 


§4 宗成職(1419年?‐1467年)

 名君が世を去った後、混乱が起きたのは宗氏側でも同じであった。宗氏の威信を大いに高めた貞盛が没した後は、嫡男成職〔しげもと〕が継ぐが、彼の時代、宗氏一族は結束を欠いた。
 その結果か―上述した朝鮮側の混乱もあったか―、1450年代になると、嘉吉条約適用外の深処倭(本土日本人)名義の朝鮮通交が多発している。そのため、朝鮮側は1455年にこれら深処倭の整理統制を宗氏に要求した。
 それでも深処倭名義通交は増発していくが、これは宗氏が名義借りや通行権譲渡の形で偽使として派遣したものと考えられている。こうした偽使を成職が単独で送っていたか、それとも宗氏関係者が個別に送っていたのかは不明である。
 成職時代の宗氏は、国内的にも後退があった。嘉吉の乱の首謀者・赤松満祐の弟則繁をかくまい、朝鮮逃亡を幇助したため、大内氏らの追討を受けた旧来の主家筋少弐教頼―成職の義兄弟―の筑前復帰を支援するも、大内氏に敗れた。
 結局、宗氏の再起は、成職が嫡男を残さず1467年(応仁元年)に没した後を継いだ従弟に当たる養子貞国の手に委ねられることとなったのである。