歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(3)

 曖昧な近代の開始

第一次アングロ‐アフガン戦争
 バーラクザイ朝アフガニスタン首長国に対する英国の第一次戦争で前面に出てきたのは、当時英国のアジア侵略の先兵であった東インド会社軍であった。非正規の傭兵組織とはいえ、インド人のセポイを主力に強大な軍事力を持った東インド会社軍は、1839年8月までに首都カーブルを陥落させ、バーラクザイ朝初代首長ドスト・モハンマドは中央アジアウズベク系ブハラ首長国に亡命した。
 英国は約束どおり、旧王家のシュジャー・シャーを王位に就けた。こうしてバーラクザイ朝はいったんはあっけなく崩壊するのであるが、ここからアフガン人持ち前の粘り強さが発揮される。バーラクザイ朝勢力はカーブル北西の渓谷地帯バーミヤーンを根拠地にカーブル奪回を目指して武装抵抗を続ける。
 ドスト・モハンマドの息子ワジル・アクバル・ハーンがこの戦争を指揮して、42年には東インド会社軍を撃破した。この際、老将エルフィストーンに率いられてカーブルから撤退した英軍は軍属を含む1万6千人以上が殺害されるか、捕虜とされる(将軍も捕虜となり、抑留中に死亡)悲惨な敗北を喫した。この後、功労者アクバル・ハーンが二代目首長に即位する。
 英国は翌年報復戦を挑むも、芳しい成果を上げることなく、アフガニスタン攻略をひとまず断念する。一度帰国するも、その後捕らわれ英領インドに抑留されていたドスト・モハンマドも解放された。彼は45年に息子のアクバル・ハーンが死去したことを受け、再度首長に復帰する。
 二期目のドスト・モハンマドは当初、英国への牽制策として仇敵シク王国と同盟する道を選ぶが、ランジート・シング死後、混乱を極めていたシク王国は49年に英国に敗れ、英国領に併合された。
 これを見たドスト・モハンマドは一転、英国との融和に転じ、55年にはペシャワール条約を締結して英国と同盟した。以後は、英国と結びつつ、北西部の要所ヘラートの領有権をめぐり、ペルシャとの戦争に没頭し、ヘラートを奪回した63年に死去したのである。

[E:night]第二次アングロ‐アフガン戦争
 ドスト・モハンマドの死後、後継指名されていた彼の30人近い息子の一人シール・アリ・ハーンが即位するも、翌年以降、二人の兄が反乱を起こし、66年にいったん首長位を失う。しかし反攻に出たシール・アリは、68年までに地位を回復した。
 こうして始まったシール・アリの治世は再び英露の「グレート・ゲーム」に悩まされるものとなった。この間、ロシアが攻勢に出て、68年から76年までに中央アジアの三つのウズベク系ハーン国を次々と保護国化していった。
 これに対し、シール・アリは中立政策で臨もうとするが、78年、外交上の不手際から招待していないロシアの外交使節の強行訪問を排除できず、対抗上要求された英国の使節は拒否したことを英国側に咎められ、英国の宣戦布告を招いた。
 こうして38年ぶりに始まった第二次アングロ‐アフガン戦争では前の戦争と違い、74年に東インド会社を解散していた英国は正規の軍隊(英印軍)で三方から侵攻する巧妙な作戦を展開し、優位に戦況を進めた。シール・アリは退位を余儀なくされ、北部マザリシャリフに逃れ、死去する。
 後を継いだ息子のモハンマド・ヤークブ・ハーンとの間で79年に締結されたガンダマク条約で、アフガニスタンは英国の保護領となることが約された。しかし粘り強いアフガン人の抵抗が断続的に続く中、ヤークブ・ハーンはわずか八か月で退位、後継の弟モハンマド・アイユーブ・ハーンは妥協的な兄とは異なり、反英闘争を続け、今日でも国民的英雄として記憶されている。
 こうした中、英国はシール・アリへの反乱に加わった後、ロシアの庇護下で亡命生活を送っていたタシケントから帰国したシール・アリの甥アブドゥル・ラフマーン・ハーンに目を付け、前記ガンダマク条約の履行を条件に、彼に王位を約束した。アブドゥル・ラフマーンはこれを受け入れ、新首長に即位した。
 以後、戦争の泥沼化を恐れた英国はアフガニスタンから軍を撤退させ、内政はアブドゥル・ラフマーンに委ねる自治政策を採った。こうして、アフガニスタンは改めて英保護国として再出発する。
 しかし、この時の条約で取り決められた国境線の結果、パシュトゥン人の居住地域がアフガニスタン側と当時の英領インド側(現パキスタン)とに分断されることとなった。この分断が、遠く21世紀には過激派集団が掃討作戦を逃れて活動するうえで有利に働いているのは、歴史の皮肉である。