歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東通史―中心⇔辺境(15)

十六 幕末・維新の関東

 周知のとおり、江戸幕藩体制は250年以上にわたり揺らぐことなく持続したが、19世紀半ばを過ぎると、にわかに終焉が近づいた。この「幕末」と呼ばれる体制最後の時期、関東は再び中心としての地位を失いかけたことがある。
 幕府は従来、一度も遷都することなく、江戸を首都として存続してきたが、幕末に欧米列強の開国圧力の中で体制が揺らぐと、京都の朝廷の権威にすがって体制延命を図るようになった。結果として、それまでは京都所司代を通じて中央の監視対象となってきた京都に政治的な重心が移っていく。
 最後の将軍・徳川慶喜は朝廷との連携・連絡関係を深めるため、将軍在任中は畿内に常駐し、幕臣も京都に集結させ、政権の実質的な京都移転を推進しようとしていた。これにより、政治的な中心が京都に移り、事実上の遷都の様相を呈していた。
 もし慶喜政権が続き、狙いどおり幕藩体制が延命されていたとしたら、完全な遷都が実現し、江戸幕府から「京都幕府」に転換していた可能性もあったろうが、歴史の進路はそうはならなかった。
 幕藩体制に終止符を打った維新政府は王政復古により天皇中心の政治体制を構想しており、その場合、さしあたり千年以上続いてきた王都の京都を首都として再興するのが自然なはずであった。しかし、初期の実質的な最高実力者・大久保利通は大坂遷都論を提唱し、公家勢力の反発を招いた。
 一方、江藤新平らは東日本にも「王化」を及ぼすという観点から江戸を帝都とする「東西両都」の折衷案を出し、支持を得た。この案に沿って、慶応四年7月に「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発布された。これは江戸を東京と改称しつつ、天皇が東京で執務することを明確にした宣言書であった。
 この施策は京都にこだわる保守的な公家勢力を慰撫するため、形の上では「両都」論に沿っていたが、天皇が東京に移ることにおいては、事実上東京を首都と定めること―東京奠都―に等しく、結局のところ江戸がそのまま維新体制の首都として継承されたことを意味する。
 こうして明治天皇明治元年10月に初の東京訪問(行幸)を行い、いったん京都へ帰還した後、明治二年以後は正式に東京へ移り、その後も大正、昭和、平成と三代にわたり東京が天皇の居所となっている。
 この結果、維新後の関東は江戸改め東京を首都として引き続き日本の政治経済の中心地としての位置を今日まで維持していくこととなった。これはひとまず現実的な策ではあったろうが、明治政府の中央集権化とあいまって、その後の一極集中構造の元を作ったことも否めない。

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