歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載第23回)

二十六 徳川慶喜(1837年‐1913年)

 徳川慶喜は本来は水戸徳川家の当主・徳川斉昭の七男として生まれたが、12代将軍家慶の命により一橋家の養嗣子となり、一橋家当主を継いだ。英明の評判の高かった慶喜は最終的に将軍に就任する以前、二度将軍候補に挙がったことがある。
 一度目は家慶が将軍不適格の息子家定に代えて慶喜を次期将軍とする構想を非公式に内示した時であった、これは幕閣の反対により立ち消えとなった。二度目は13代将軍家定の治世末期であり、この時は明確に斉昭ら一橋派から将軍に推挙されたが、紀州藩主家茂を推す南紀派に押し切られた。この後、実権を握った大老井伊直弼主導の政権では、安政の大獄連座して隠居謹慎処分を科せられ、政治的発言力を封じられた。
 しかし、井伊暗殺後、一橋派が復権すると、将軍後見職に送り込まれ、年少の14代将軍家茂の下、実質的な摂政として実権を掌握した。そして政事総裁職に就任した福井藩松平慶永(春嶽)との二頭体制で公武合体期の国政を主導する。
 しかし、間もなく朝廷への恭順姿勢の強い慶喜と朝廷との距離を保とうとする慶永の相違が表面化し、慶永は辞職する。慶喜は攘夷を主張する朝廷に従って横浜港閉港方針を固め、朝廷との密着を強めた。元治元年(1864年)に将軍後見職を辞し、後の近衛師団長に相当する禁裏御守衛総督に就いた慶喜は、尊皇攘夷派筆頭の長州藩征伐に専心する。
 そうした中、第二次長州征伐渦中の慶応二年(1866年)に将軍家茂が急逝すると、幕閣と将軍未亡人和宮の推挙を受け、15代将軍に就任する。再び将軍職が一橋系に復帰した形となったが、前述のとおり、血統上慶喜は御三家ながら将軍を出さない「副将軍」格の水戸徳川家の出身であったことから、実家の水戸家の反対を受け、自身も当初は将軍就任を固辞していた。しかし、終末期の幕府は人材も払底しており、慶喜以外の有力候補者は見当たらなかった。
 こうして三度目の正直で将軍に就任した慶喜畿内に常駐し、事実上朝廷の首相のような立場で国政に当たった。彼の将軍在位は1年ほどであったが、この間、慶喜はフランスの援助で近代軍備を整備したほか、大規模な行財政改革にも着手するなど、幕藩体制の枠内で近代的な改革にも踏み込んだ。これは「慶応の改革」とも呼ばれるが、従来の保守反動的な「改革」とは異なり、実質的な改革プログラムを含んでいた。
 しかし、こうした限定改革ではもはや薩長の討幕運動を抑止し切れないことを見て取った慶喜は、慶応三年(1867年)、大政奉還を決定する。このことは、法的には徳川幕藩体制にとどまらず、鎌倉幕府開府以来700年近くにわたって続いてきた武家政権の終焉を意味した。ただ、慶喜は新たに自らを議長とする諸侯会議を設置し、内閣制に準じた形で徳川実権体制を残すことを画策していたようだが、これを阻止するため薩長が先制的に王政復古クーデターを起こし、慶喜を政権から排除した。
 この政変を契機として始まる戊辰戦争にも敗れた慶喜は、慶応四年(1868年)、江戸城無血開城とともに謹慎処分となり、実家の水戸を経て、徳川家本拠の駿府に落ち着いた。戊辰戦争では朝敵と名指された慶喜の助命と徳川家存続が許されたことには、皇族出身の和宮の仲介もあった。こうして徳川家自体の存続は認められたが、慶喜は宗家当主の地位からは降ろされ、田安家の徳川家達(いえさと)が新たな宗家当主とされた。 
 しかし明治二年(1869年)には早くも謹慎解除となり、引き続き駿府で隠居生活を送っていたところ、明治後半期になると東京へ移ることが許された。明治三十年(1902年)には宗家とは別途徳川慶喜公爵家の創設が認められ、貴族院議員として近代政治にも参与した。
 明治を越え、大正二年(1913年)まで長生した慶喜は将軍経験者で唯一20世紀を生きた人物であった。前近代に生まれ、近代にも適応して生き延びた慶喜は時代の変化を読み取る力はあったが、動乱期の指導者として強力とは言えなかった。反面、幕藩体制、ひいては封建的武家支配に幕を引く人物としてはふさわしかったのかもしれない。