歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載第22回)

二十五 松平容保(1836年‐1893年)

 松平容保〔かたもり〕は、元来尾張藩支藩の美濃高須藩主の六男として生まれたが、かつて2代将軍秀忠の庶子保科正之が興した会津松平家の養嗣子となり、会津藩主を継いだ。血統上は水戸徳川家から高須藩主家を養子として継いだ祖父を通じて水戸家の流れを汲み、同志的存在であった最後の将軍徳川慶喜とも同系に当たる。
 容保が国政に登場するのは、慶喜と同様、桜田門外の変後の政権交代により、文久二年(1862年)に新設された京都守護職に就任した時である。当初はすでに多くの警護職を引き受け、逼迫していた藩財政を考慮し、固辞したものの、政事総裁職松平春嶽の説得を受けて受諾した経緯があった。
 就任後の容保はさっそく上洛し、京都の警備任務を着実にこなして孝明天皇の信任を得た。この頃から忠実な佐幕派として将軍後見職慶喜らが主導する公武合体政策を支持し、尊皇攘夷派の取り締まりに厳しく当たった。特に慶喜将軍後見職を辞し、禁裏御守衛総督に就くと、慶喜実弟京都所司代松平定敬〔さだあき〕と協力して京都を固め、長州藩排除に専心した。特に文久三年に長州藩を京都から放逐する政変を主導したことで、天皇の信頼を増した。
 慶喜が15代将軍に就くと、引き続き京都守護職として慶喜政権を支えるも、大政奉還後の王政復古クーデターで京都守護職が廃されると、表向きは新政府に恭順の意を示して会津へ帰国し、隠居・謹慎生活に入った。
 しかし、容保をいっそう有名にしたのは、隠居後、新政府に刃向かった会津戦争であった。新政府は容保を佐幕派首領とみなし、謹慎中の容保追討を東北諸藩に命じる。これに対して、会津藩に同情的な東北諸藩は奥羽列藩同盟を結成して会津藩赦免嘆願行動を起こすが、新政府・容保双方の強硬姿勢の前に赦免嘆願は実らなかった。
 東北・北越諸藩が奥羽越列藩同盟を結成すると、容保は側近の諫言を押し切って新政府との全面戦争に打って出た。こうして一連の戊辰戦争の中でも最も凄惨を極めた会津戦争が勃発する。しかし、当初から戦力において圧倒的に不利な会津藩に勝ち目はなく、戦況は新政府軍有利に展開、最後は決死の若松城篭城作戦も実らず、2500人を越す犠牲を出して全面降伏となった。
 にもかかわらず、戦後処理は無謀な戦争を主導した容保は薩長の計らいで死罪を免れ、家老一人が死罪となるという封建的なものであった。新政府としては、容保死罪によりなお徹底抗戦を主張していた強硬派残党が蜂起することを恐れたものと思われる。
 戦後は蟄居の身となった容保であるが、間もなく赦され、旧佐幕派にふさわしく日光東照宮宮司として余生を送り、明治二十六年(1893年)に東京で病没した。結局、容保は最後まで徹頭徹尾、主君に奉仕するまさに日本型の封建武士なのであった。
 なお、明治維新後の近代徳川宗家の現当主(養子)徳川恒孝〔つねなり〕氏は容保の六男の孫(容保の曾孫)に当たり、分家を介してながら、近代徳川宗家に容保の血統が流れることになった。