歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載第19回)

二十 徳川治済(1751年‐1827年)

 徳川治済〔はるさだ〕は、御三卿の一つである一橋家の家祖・徳川宗尹の四男であったが、二人の兄が相次いで福井藩主家の養子となり、福井藩主に転出したことから、一橋家の2代目当主となった。
 趣味道楽の世界に遊んだ父とは異なり、治済は政治的な野心家であった。しかし彼の若年期は田沼氏の全盛期であり、田沼の親族が一橋家の家政にも関わるなど、田沼一族に支配されていた。そうした中で、治済は当初田沼と結び、御三卿ライバル家の田安家を出し抜くため、田安家当主候補だった定信の白河藩主家との養子縁組をセットし、後に定信が養子縁組解消を願い出た時にも、これを阻止した。ために、田安家は長く、当主不在のままに置かれた。結果、彼の一橋家が御三卿の中核となる。
 治済は10代将軍家治の死に際して、自身でなく、年少の長男・家斉〔いえなり〕を将軍に据えることに成功した。そして田沼の権勢が衰えたのを見ると、一転反田沼派に寝返り、田沼追放と田沼派粛清を裏で仕掛けた。おそらく、白河藩主家に追い落とした松平定信の反田沼感情の強さを見込んで老中首座に迎えたのも治済の計略であった。
 こうして、治済は自ら将軍に就任しないまま、将軍実父として将軍を背後から操る闇将軍となった。彼は1827年まで存命したから、大御所時代を含めて歴代最長の54年に及んだ家斉の治世のうち40年間に関与している。長い家斉の治世はしばしばまとめて「大御所時代」と呼ばれるが、この間の真の大御所は治済であったと言ってもよい。
 実際、当初治済は年少の家斉を動かして大御所の称号を得ようとしたことがあった。ところが、当時朝廷でも時の光格天皇皇位に就いたことのない実父に太上天皇上皇)の称号を付与しようとしたことに老中・松平定信が異を唱えて介入、結局撤回させた一件(尊号一件)があり、この対処方針との均衡上、将軍経験のない治済の大御所待遇も見合わせざるを得なくなった。このことで、治済は定信に反感を抱くようになり、今度は家斉を動かして定信追放を仕組んだと見られる。
 以後、治済は朝廷の官位では従一位・准大臣まで昇進するが、幕府では無役のまま闇将軍として幕政に関与し続けることになる。その間、治済は別の実子を田安家の当主に送り込んだほか、孫二人を相次いで御三家の尾張藩紀州藩に養嗣子として送り込むことにも成功し、幕末にかけて一橋家が将軍家を含め、徳川一門の中心家系となる基盤を築いた。

二十一 徳川家斉(1773年‐1841年)

 徳川家斉〔いえなり〕は先代家治の世子・家基が夭折したのを受け、田沼や実父・治済の後継工作により家治の養子となり、次期将軍に決定された。そして先代死去を受け、天明七年(1787年)、若干15歳で11代将軍に就く。
 そのため、当初は老中首座・松平定信や実父・治済に実権を握られていた。定信の失墜後も、定信路線を継承した老中首座・松平信明〔のぶあきら〕ら寛政の遺老が集団指導した。信明が文化十四年(1817年)に没した後、家斉親政が開始されたとも言われるが、実際のところは、まだ存命中の実父・治済が背後で隠然たる権力を保持していたと考えられる。こうした二重権力状態は、治済が死去する文政十年(1827年)まで続いた。
 しかし治済‐家斉父子に政治的定見というものはなかったようで、松平信明の死後は、一転して旧田沼派人脈の側用人・水野忠成〔ただあきら〕を老中首座に起用して、寛政の反動政治を覆す。これはイデオロギー的な観点からの政策転換ではなく、単に家斉の贅沢志向を支える放漫財政を執行するのに水野派の利用価値が高いと見たからにすぎなかった。
 実際、金権政治が復活し、田沼時代以上とも言われる政治腐敗が進んだ。忠成も田沼のような「政策マン」ではなく、政策的な面でめぼしい実績はほとんどない。特に通商外交面では、開国的な思想を持った田沼とは異なり、異国船打払令のような排外一辺倒政策を採るなど、田沼政治とはかけ離れていた。放漫財政維持のため苦し紛れに実施した貨幣改鋳・大量発行も物価の騰貴を惹起しただけであった。一方で大量消費傾向が市中にも浸透し、文化統制の緩和も手伝って華美な化政文化が花咲くことにもなった。
 しかし天保五年(1834年)、忠成が死去すると、一挙に問題が噴出する。天保期に相次いだ大塩平八郎の乱生田万の乱は首謀者の個人的な蜂起にすぎず、まだ討幕運動の域には達していなかったが、幕府の威信の揺らぎを象徴した。また19世紀末から活発化していた西洋列強の来航に対しても場当たり的な排斥以上の対処ができず、対外的にも鎖国政策の行き詰まりが露呈していた。
 後に「天保の改革」を主導する水野忠邦は同族に当たる忠成の死後、後任の座に就いていたが、当時はまだ忠成派の将軍側近に主導権を握られていた。忠邦が改革に着手できたのは、天保十二年(1841年)、長い家斉の治世がようやく終焉してからであった。