歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載第20回)

二十二 徳川家慶(1793年‐1853年)/家定(1824年‐1858年)

 家慶は11代将軍家斉の次男であったが、兄が夭折したため、将軍後継者となった。ただ、最初の4年は父の家斉が大御所として君臨したため、傀儡の状態であった。父が死去するや、腐敗した父の側近グループを追放し、老中首座ながら冷遇されていた水野忠邦に実権を与え、改革に着手させる気概を示した。これが江戸時代三大改革の一つに数えられる「天保の改革」である。
 しかし、天保の改革の基本線は松平定信寛政の改革の復刻であり、寛政の「改革」同様、「改革」というより「反動」であった。従って、またも統制と緊縮であった。特に風紀取締りは寛政期より徹底し、出版統制にとどまらず、芝居小屋の郊外移転、寄席の閉鎖から歌舞伎の抑圧にまで及び、庶民の数少ない娯楽を奪うことになった。
 ただ、軍事政策に関しては新規の政策として、排外的な外国船打払令を薪水給与令に転換し、外国船にも燃料・食糧の援助を行うこととした。これは間もなく始まろうとしていた開国政策を予感させる初めの一歩であった。
 一方で、西洋式砲術を導入し、近代的な軍制整備を目指すなど、それまであまり意識されていなかった国防政策にも踏み込んだ。
 しかし、その延長で江戸・大坂二大都市の防衛を目的に、周辺大名・旗本の領地を召し上げ、幕府直轄地化を図る上知令は、水野の政治生命を縮めることとなった。封建制を解体することなく成り立っていた幕藩体制の根幹を揺るがすこの施策は、当然にも上知対象となる領主らの反発を招いたのだ。そのため、事態を重く見た家慶の判断で上知令は撤回、水野も罷免され、天保反動はわずか2年ほどで挫折したのであった。
 ただ、家慶は水野に未練があったようで、早くも翌年には口実をもうけて彼を老中首座に呼び戻しているが、この人事には幕閣から強い異論があり、復帰後の水野は欠勤がちでほとんど仕事をしないまま、1年あまりで罷免、今度は旧側近らの汚職問題に連座して減封・転封の懲罰処分まで受けて追放された。
 家慶時代最大の危機は嘉永六年(1853年)の黒船来航であったが、家慶はこの問題の処理をめぐって幕閣が揺れる中、病没してしまう。
 この一大事の時に後を継いだのは、計27人もいた家慶の子どもたちの中で唯一成人まで存命した四男の家定であった。父家慶は家定の無力を深く懸念していたが、その懸念はすぐに的中した。家定には何らかの先天性障碍があった可能性もあるが、定かではない。ともかく、彼は夭折した7代家継を別とすれば歴代将軍の中でも最も暗愚であり、得意なことと言えば菓子作りぐらいであった。
 この時期の幕閣は先代から引き継いだ老中首座・阿部正弘を中心とする集団指導であったが、外交的な難局に当たり家定のような不適格者がトップに座ったのは、封建的な世襲政治の最大の弱点であった。
 結局、日本が米・英・仏・露・蘭の欧米列強五か国と立て続けに不平等条約を結ばされたのも、弱体な家定治下のことであった。そして、家定自身、この安政五年(1858年)の五か国条約を置き土産として、同年に病没したのである。