歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載第13回)

十三 徳川家宣(1662年‐1712年)/家継(1709年‐1716年)

 徳川家宣は3代将軍家光の孫で、先代将軍綱吉の甥に当たるが、綱吉に男子継承者がなかったことから、甲府藩主だった家宣が後継者に決定した。元来後継候補としては、綱吉の長女が嫁いでいた紀州徳川家紀州藩徳川綱教〔つなのり〕が有力であったが、綱吉より先に没したことで、お鉢が回ってきた。
 家宣が就任後最初に行ったのは、悪法化していた生類憐みの令の廃止であった。また綱吉に重用されて幕政を仕切っていた側用人柳沢吉保を辞職させ、代わって間部詮房新井白石といった低い身分から引き上げた甲府藩の有能な重臣を呼び寄せ、政治改革に着手した。特に家宣は自身学問好きであったことから、白石のほか室鳩巣のような儒学者を積極的に起用した。
 家宣とその子で7代将軍家継の短い期間にまたがる政治改革がいわゆる正徳の治であるが、これは白石のような学者主導のものとなったため、まさに文治政治の性格が濃厚であった。しかしいささかイデオロギーに走る傾向が見られたため、「改革」の名が冠せられることは通常ない。
 例えば、経済政策面では綱吉時代の財務大臣格だった荻原重秀が追い落とされ、「金銀貨の品位低下と量目低下は公儀の威信の低下に連動する」という白石の理論に基づき、より高品質の正徳金銀が発行された。この新旧貨幣の交替は慎重に行われたとはいえ、これにより通貨供給量が減少し、デフレーションを惹起した。
 また長崎貿易による金銀の海外流出を防ぐためとして、貿易制限と国産化の増進による鎖国政策の強化も図ったが(海舶互市新例)、これも貿易そのものに否定的な儒学的発想に由来するものであった。
 こうした正徳の治は家宣が治世3年で死去し、わずか3歳の息子・家継が後継将軍に就任すると、頓挫し始める。本来、生前の家宣は自らの後継に幼少の息子ではなく、尾張藩徳川吉通を迎える意向であったが、白石が反対した経緯があった。おそらく白石としては、幼少の将軍のほうがいっそう思い通りの改革ができるとの狙いからであろう。
 ところが、この見通しは外れた。統治者として機能しない家継の下、かえって白石らを敵視する反甲府派が巻き返しを図ってきたからである。正徳四年(1714年)に大奥の幹部女中が歌舞伎役者と会食して門限に遅れた一件がスキャンダラスにフレームアップされた江島生島事件は、反甲府派に巻き返しのチャンスとして大いに利用された。
 家継が長生していれば形勢は挽回できたかもしれないが、不運にも家継は正徳六年(1716年)、7歳を前に夭折した。江島生島事件で主導権を握った家宣正室天英院の推す紀州藩徳川吉宗が後継将軍として迎えられると、間部詮房新井白石は罷免され、正徳の治も終焉したのだった。