歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載第16回)

十六 徳川宗武(1716年‐1771年)

 徳川宗武は8代将軍吉宗の次男で、9代家重の異母弟に当たる。家重の項で述べたとおり、家重には重度の障碍があったことから、当初は宗武後継を主張する勢力も強かった。ことに吉宗時代の老中・松平乗邑〔のりさと〕は宗武派の急先鋒であった。しかし、結局吉宗の意向で、家重後継が決まる。
 宗武はその後も将軍位に未練を残したらしく、家重の欠点を列挙する奏上に出たため、大御所に退いていた父吉宗から不忠の疑念を抱かれ、3年間登城禁止処分を受けるなど、疎んじられた。宗武派だった松平乗邑もすでに罷免されており、宗武は後継者争いに敗れたのであった。
 幼少時から英才とうたわれた宗武は自身将軍職にふさわしいという強い自負の念を抱いていたようだが、実際のところ彼が才覚を発揮したのは学芸の分野であり、後継者争いに敗れてからは、政治から距離を置き、学者・歌人として活動した。特に学者としては、当時勃興していた国学に傾倒し、賀茂真淵を和学御用掛に招聘したほか、自らも何冊かの古典注釈書を発表したほどであった。歌人としても自身の歌集や歌論書も発表している。
 家系的には紀州系「御三卿」の一つ田安徳川家の祖となった。しかし、田安家は結局、一人も将軍を輩出することなく、血統的にも中途断絶した後、御三卿の一つである一橋家の養子によって再興・存続するという変則的な経緯をたどることとなった。とはいえ、この家系は明治維新後、新政府の方針により宗家を継ぎ、近代徳川家の中心家系として今日まで存続している。

十七 徳川宗尹(1721年‐1765年)

 徳川宗尹〔むねただ〕は8代将軍吉宗の四男かつ9代家重の異母弟にして、一橋家の家祖である。二人の兄が存命する限り、自身に将軍位継承の可能性はほぼ存在しなかったが、吉宗後継問題に際しては、親しくしていたらしい次兄の宗武を推していたようで、父からは宗武と同罪として疎んじられた。
 しかし、宗尹に始まる一橋家は御三卿の中で唯一将軍を輩出し、幕末になると実質上宗家の地位に就く。さらに上述の田安家や9代将軍家重の次男重好を家祖とする御三卿清水徳川家も実質的に継承する形で、徳川家全体を独占するようになった。
 このように後代の一橋家が隆盛を誇ったわりに、家祖宗尹は影が薄く、その事績はほとんど伝わらない。将軍後継問題に際して次兄を支持したほかは政治的関心に乏しかったようで、宗武のように学芸にいそしむでもなく、専ら鷹狩りや陶芸、染色、製菓などの趣味道楽の世界に遊び暮らした人であった。