歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

抵抗の東北史(連載第4回)

三 征服と抵抗(上)

 百済滅亡後の畿内朝廷は、新羅と同盟していた敵方の唐の制度にならった律令制国家の建設に邁進していく。それが飛鳥時代最末期の大宝律令の制定で一段落すると、中断していた東北遠征が再開される。8世紀初頭、日本海側に出羽柵が設置されたのはその出発点となった。
 同時に、畿内朝廷の東北政策にも明白な変化が現れる。すなわち、従来の共存を前提とした服属政策から、入植政策への転換である。その手始めに、714年以降、尾張信濃などからも多数の和人を出羽柵に移入させた。こうした政策的入植民は計1300戸に及んだ。かれらは開拓民であると同時に、東北地方にも律令制国家の支配を及ぼすための先兵でもあった。
 太平洋側でも今日の仙台市太白区付近に置かれた陸奥国府を拠点に、この地域の支配を強化していた模様である。今日郡山遺跡として知られる遺跡群がその考古学的根拠とみなされる。
 養老年間になると、エミシ統制を主任務とする陸奥出羽按察使が設置される。エミシ側の反応は早かった。720年には按察使・上毛野広人が武装蜂起したエミシに殺害される事件が起きた。上毛野氏は元来今日の群馬の古墳勢力を祖とする豪族と見られ、関東最大の勢力であったが、この頃には畿内朝廷に帰順し、関東に接する東北地方の初期軍事行政で活躍していたものと見られる。
 この養老蜂起が記録に残るエミシによる初の大規模反乱事件であるが、エミシ側にしてみれば、畿内朝廷の政策転換に対する抵抗の始まりであった。事態を重く見た朝廷では東国武蔵国守の経験のあった多治比縣守〔たじひのあがたもり〕を征夷将軍に任じて、鎮圧した。
 戦場となったと見られる今日の宮城県大崎市に所在する官衙遺跡群に広範囲な焼失痕が認められることからして、エミシ側の蜂起の規模も相当なものであったようである。
 ちなみに、斉明朝期の記録はエミシに近傍の熟蝦夷(にきえみし:従順な蝦夷)、遠方の麁蝦夷(あらえみし:勇猛な蝦夷)、最遠方の都加留(つがる)の三種族を区別しているが、養老蜂起の主力は麁蝦夷だった可能性が高い。おそらく太平洋側でも支配の強化を狙い、北進を企てた朝廷軍と衝突したのだろう。
 この事件を機に、朝廷は724年、従来よりも北に新たに多賀城を建設し、ここを鎮守府陸奥国府として東北経営の拠点とする。
 その後、733年には日本海側の出羽柵を北へ移設し、多賀城と並ぶ東北経営の二大拠点としたうえ、737年に内陸部のエミシ拠点であった雄勝を征服し、多賀城・出羽柵をつなぐ連絡路を確保した。これにより東北の太平洋側と日本海側が結ばれ、畿内朝廷の東北支配がより面的なものとなったのである。