歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

抵抗の東北史(連載第3回)

二 共存の時代

 古墳時代後期頃に成立した南部の和人古墳勢力と北部のエミシ勢力は、おおむね衣川(北上川水系)を境界線として共存均衡していたものと考えられるが、両者の交渉関係については史料が乏しく、詳細は不明である。
 一方、7世紀までに関東を支配下に収め、朝廷として整備されてきた畿内王権はさらに北上して東北にも踏査の手を伸ばしてくる。手始めは日本海側であった。その理由として、畿内朝廷の支配力はまだ東北内陸・太平洋側には高密度に及んでいなかった一方、北陸ではすでに越国を建て、この地に築造した渟足柵や磐舟柵といった城柵を中継基地として北方へ進出しようとしたことが考えられる。
 とりわけ、正史上は斉明天皇の時代(私見斉明天皇を正式の天皇に数えない)に越国守阿倍比羅夫が東北遠征の将として活躍した。比羅夫は658年から660年にかけての三年間で三度の北方遠征を行っており、この時期、畿内朝廷が相当集中的に東北遠征を企画していたことが窺える。
 最初の658年遠征は180艘もの大船団を率いての遠征であり、比羅夫軍は鰐田浦(秋田)廻りで津軽に到達している。この時は降伏させたエミシの首領恩荷を渟代・津軽二郡の郡領に任じ、冠位も授けた。翌年には、再び同地域に遠征し、比羅夫は一つの場所に飽田・渟代二郡、津軽郡、さらに北海道と見られる胆振鉏のエミシら総勢400人あまりを集めて饗応し禄を与えている。大規模な集団服属儀式であろう。
 三度目の遠征はエミシと対立関係にあったと見られる粛慎なる異民族(オホーツク人か)の討伐が目的であり、エミシ勢力からの救援依頼に答えた形であった。
 こうした正史上斉明期の東北遠征を見ると、奈良・平安朝期のそれとは異なり、地上軍団による征服作戦は展開されず、水軍による踏査と服属・授爵、交易が主目的であることがわかる。
 こうした遠征はまだ東北の軍事的な征服作戦ではなく、エミシとの共存関係を前提に、形式上畿内朝廷がエミシを服属させるという古墳時代的な服属支配体制の延長上で行われていたものであったと考えられる。
 このような飛鳥時代の東北遠征は、畿内朝廷が密接な関係を持った朝鮮半島国家・百済新羅‐唐連合軍の攻撃により亡国し、百済救援軍が組織された―比羅夫も将軍として動員された―のをきっかけに長く中断される。