歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第6回)

第二章 「神武東征」の新解釈

(3)天孫族の渡来

渡来の時期
 前回見たように、天孫降臨神話に形象化された加耶系集団の渡来時期はいつごろのことなのであろうか。この問いに正確な解答を出すのは難しい。
 一つのかすかな手がかりは、金官加耶国開祖・金首露の末裔である金海金氏の家伝の中に、初代首露王の王子のうち七人が「厭世上界」し、第二代・居登王(首露王の長子)の時にも、その王子の一人が世の衰退を見て神女とともに「乗雲離去」したという話が伝わっていることである。
 これは明らかに仏教的脚色を伴った伝承ではあるが、そうした後世の脚色を剥ぎ取ってみると、「上界」とか「離去」とは、一部王族が一族郎党を引き連れてどこかへ集団で移住して行ったことを暗示するとも読み取れる。その行き先が海を越えた日本列島であっても少しもおかしくはないであろう。
 問題はその時期であるが、先の伝承では初代から二代国王の時期に早くも王族の集団移民が出たように読める。とすると、それは王朝成立後のかなり早い時期ということになろう。
 それでは、金官加耶国はいつごろ成立したのであろうか。これについて、金官加耶国建国神話を伝える朝鮮の史書『三国遺事』は、後漢光武帝18年(西暦42年)と明記する。
 しかし、この年代は疑わしい。金官加耶国は532年に最後の王・金仇亥(仇衡)が新羅に投降して併合されるまで、全十代の王しか記録されていない。
 王族といえども平均寿命が長くなかった古代に、一世代=20年で計算しても全十代=200年にすぎず、金官加耶建国はせいぜい4世紀前半のことになる。あるいは王名表の欠落の可能性を考慮してもう少し遡らせてもせいぜい3世紀末頃が限度で、『三国遺事』の1世紀代は無理である。
 なお、初代・首露王は158年間も在位したとされるが、これは日本の初代・神武天皇が在位76年、127歳で死去したという『書紀』の筋書きと同様の神話的誇張である。
 さて、そうすると、金官加耶国成立の早い段階で発生したと推定される日本列島への集団移住(=天孫降臨)も、相当早く見て4世紀初頭以前に遡ることはないと言わざるを得ないであろう。

渡来の要因
 では、金官加耶国王族らをして、日本列島を目指さしめた理由は何だったろうか。
 建国神話によると、首露王登場以前の加耶は9人の族長(九干)が率いる部族連合体であった。これは『魏志倭人伝で邪馬台国へ至るルートの中継地「狗邪韓国」として記された時代のことを示しているのであろう。
 こうした氏族連合体的構造を揚棄して、新たに金氏が統一王朝を樹立したものと考えられる。しかし、こうした氏族連合体の揚棄の上に成立した王朝の常として、王族を巻き込む権力闘争・政情不安につきまとわれたはずであり、それに加えて、この旧弁韓加耶地方は小邦分立とその離合集散の激しいことが特徴であり、内憂外患が絶えなかった。
 そうしたことから、この地方は歴史を通じて構造的に流民・移民を輩出しやすかったと言える。天孫降臨も、そうした環境の中で発生した王族とその従者・支持者らによる集団移住であったと解することができよう。

考古学的証拠
 こうした金官加耶王族(=天孫族)の集団渡来を裏づける考古学的証拠は、実のところあまり多くない。ただ逆説的に言えば、そのことがかえってかれらの再移住(=神武東征)の裏づけともなるのであるが、これについては次節で改めて述べることとする。
 さしあたり、かれらが最初に上陸したと考えられる糸島半島の地名には加耶にまつわるものが多いという事実は、一つの準考古学的な傍証と見てよい。地名とは、それにゆかりのある人間が集住したことの痕跡を示すものだからである。
 例えば、旧糸島郡北側の旧志摩町一帯はかつてその名もズバリ可也と呼ばれたところで、糸島半島最北端は韓泊[からどまり]と呼ばれ、加耶方面からの船舶が停泊する港として利用されたようだ。また、内陸部の旧前原市にも可也山を中心に鶏永[けえ](「カヤ」の転訛か)郷とか、柏森[かやもり]などの地名がある。*2010年をもって、志摩町前原市二丈町とともに糸島市に統合された。
 しかし、この近辺には前期古墳に象徴されるような新王権成立の考古学的証拠は乏しい。ただ、糸島半島付近には、40基ほどの中期以降を中心とした前方後円墳の存在が確認されているが、畿内に代表されるような「古墳群」と呼び得る大規模な墓域は確認されておらず、どうやら天孫族はこの最初の上陸地点付近では本格的な王権を樹立できずに終わったらしい。
 考えてみると、糸島半島には邪馬台国に統属しながら「一大率」が置かれて諸国を検察し、「諸国はこれを畏れ憚る」と『魏志』でも記された伊都国が睨みを利かせており、新来者による王権樹立は困難な状況にあったであろう。
 おそらく、糸島半島に上陸した天孫族の最初の世代は王権を樹立できず、伊都国内やその周辺地域に一般住民として集住するにとどまり、次世代以降になって、神武の東征の詔にもあるように「東の方に良い土地がある」と聞いてさらに東方へ集団移住していったのではないかと考えられるのである。