歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第7回)

第二章 「神武東征」の新解釈

(4)二系統の天孫族

「神武東征」の経路
 神武軍団の出発地点について、正史・通説の「宮崎日向説」に立つと、かれらは宮崎の日向を出てまず九州東岸を舟で北上し、宇佐を経て筑紫国の岡水門[おかのみなと](遠賀川河口付近)に着く。これに対して、「筑紫日向説」に立てば、神武軍団は糸島半島を出発し、玄界灘を舟で東進して、岡水門に着くことになろう。
 いずれにせよ、一行はそこから針路を東に取り、瀬戸内海から安芸国を経て吉備国に入り、吉備に3年(『記』では8年)滞在して兵器や糧食を整えたとされる。
 ここで注目されるのは、神武軍団が吉備に相当な長期間留まっていることである。『記紀』は神武東征を一続きの征服事業として描いているため、吉備は中継地にすぎない扱いとなっているが、実際には吉備こそは東征軍団の最初の本格的入植地だったのではなかろうか。
 実際、岡山県倉敷市には、初期の加耶系墳墓の特徴である木槨を備えた楯築[たてつき]古墳が出現する。やがて吉備地方には畿内に準じるような古墳群を形成する実力を備えた王権が成立する。そして、その中心地はまさに賀(加)夜[かや]郡であり、周辺にも加耶にまつわる古地名が散見される。
 これを見ると、吉備は単なる中継地にとどまらず、東征軍団の最初の入植地と言うべきで、ここからさらに一部勢力が畿内方面を目指して再移動していったものと考えられるのである。

先着勢力の存在
 さて、『書紀』によると、吉備を出発した神武軍団はいよいよ大阪湾から難波碕[なにわのみさき]に上陸し、川を遡って河内国白肩津[しらかたのつ]から生駒山を越えて畿内中心部へ侵入を試みたところ、在地勢力・ナガスネヒコ(以下、ナガスネという)の反撃を受け、いったん退却を余儀なくされる。そこで一行は進路を変え、紀伊半島を回って在地勢力を征服しながら、南から畿内へ侵入し、再びナガスネと対決する。
 この時の対決場面で、ナガスネ側は自ら、かつて天磐船[あまのいわふね]に乗って天降られ、彼の妹と結婚した天神の子・櫛玉饒速日命[クシタマニギハヤヒノミコト](以下、ニギハヤヒという)に仕える者と名乗りを上げる。
 一方、神武がナガスネに対し、主君が天神の子であることを証明するように求めたところ、彼は天の羽羽矢[あまのははや]と歩靫[かちゆき]という天神のしるしを示し、神武は一応納得する。そして、自らも同じしるしをナガスネに示し、ナガスネは畏れ、かしこまる。しかし、神武はナガスネを容赦せず、殺害し、ニギハヤヒは神武に服属する。これをもって、神武東征は完了する。
 ニギハヤヒの義兄にして臣下でもあったとされるナガスネの動きを見ると、まず河内で神武軍団をいったん撃退した後、ヤマト北部の鳥見(登美)で再び対決したということは、ニギハヤヒの先着勢力は、河内からヤマト北部を本貫としていたようだ。
 ここで重要なのは、このニギハヤヒが後にヤマトの権勢豪族となる大氏族・物部氏の祖とされていることである。後に物部氏となるニギハヤヒ勢力が神武と同じ天孫族であるということは、何を意味しているのであろうか。

ニニギ派とニギハヤヒ
 ニギハヤヒのフルネームであるクシタマニギハヤヒを分析してみると、クシはニニギが降臨した久士布流のクジ(シ)に通じるし、ニギはニニギのニギと通じる。
 この点、『記』ではニニギを「邇邇芸」、ニギハヤヒを「邇芸速日」と表記し、ニギ=邇芸と表記を統一している。一方、平安時代に出された物部氏の家伝に当たる『先代旧事本紀』[せんだいくじほんぎ]では、ニギハヤヒのフルネームを「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリニギハヤヒノミコト)と表記し、ニニギとは兄弟関係とする系図を示している。
 ここで注目されるのは、ニギハヤヒも「火明」(=プル)という加耶の代名詞である製鉄を象徴する火の字を伴うことである。前にも述べたとおり、天孫族=火(フル)氏なのであった。この点、ニニギとニギハヤヒに共通するニギの意味については諸説あり、豊饒の意とする説が有力であるが、天孫族=火氏とすれば、むしろ火が盛んな様子を意味するとも解し得る。
 こうしてみると、ニギハヤヒも神武と同じく天神の子であるという『記紀』の筋書きもあながち造作とは言い切れず、ヤマトへ東征した天孫族には王権を樹立するニニギ派と後に物部氏となるニギハヤヒ派の二大系統があったものと考えられる。
 もう少し詳しく整理し直すと、両者はニギで共通する天孫ニギ族として同族であるが、その中に天孫ニギ族ニニギ派天孫ニギ族ニギハヤヒとがあったことになる。
 このうち、ニギハヤヒ派は元来、九州北部の筑後平野遠賀川下流域に拠点があったが、ニニギ派よりも若干早く九州北部へ渡来してきて、一足先に畿内へ東征していたと見られる。両派の出自に違いがあるとすれば、金官加耶国からの渡来勢力であったニニギ派に対し、ニギハヤヒ派は加耶地方の別の小邦からの渡来勢力ではないかとの推定も成り立つ。
 前回述べたように、加耶地方は統一国家が存在せず、小邦分立状態であったため、金官加耶以外にも多数の都市国家ないし村落国家的な小邦がひしめいており、とりわけ南部沿岸地域の小邦からの移民であれば容易に考えられるところである。神武がナガスネとの対決場面で「天神の子は多い」と豪語したことも、このような同系移民の多さを暗示したものと解し得る。
 さて、ニギハヤヒ派→物部氏畿内で本貫とした河内地方は、やがて4世紀後半以降、加耶(韓)式土器の一大生産地となる。おそらく、ニギハヤヒ派の故地・加耶南部地域から大勢の土器職人が渡来して、工房を営み、それをニギハヤヒ派が統括し、経済的基盤とするとともに、新来者を氏族の中に取り込み、大氏族化を推進していったものと思われる。
 従って、経済的にも強力なニギハヤヒ派が『記紀』に描かれたほど簡単にニニギ派に服属したか疑わしいのであるが、一応ニニギ派が畿内王権を樹立することはたしかであり、ニギハヤヒ派も少なくとも表面上ニニギ派王権に臣従はしたものと推定できる。
 しかし、ニギハヤヒ派が拠った河内地方がなお独自の地位を保つことが、このニニギ派畿内王権にとってのアキレス腱となったであろう。