歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第12回)

第三章 4世紀の倭

(4)伊都国の服属

独立から服属へ
 畿内加耶系王権が朝鮮半島への玄関口を確保するためには糸島半島支配下におさめる必要があったが、ここには古い歴史を持つ強国・伊都国が所在していた。そこで、同国を服属させることが畿内王権にとって最初の「外交」課題となったことは想像に難くない。しかし、そこへ行き着くまでの前提的なプロセスとして、先に見た邪馬台国の解体と伊都国の独立という序曲があった。
 伊都国が邪馬台国の解体後、独立したと解される根拠は、朝鮮側史料の『三国史記新羅本紀基臨尼師今[きりんにしきん]3年(300年)正月条に「倭国と交聘[こうへい]す」とあり、 さらに訖解尼師今(きっかいにしきん)3年(312年)には、倭国が王子の婚姻を求めたため、さる高官の娘を嫁がせたという通婚記事も見えることである。
 この点、「ヤマト王権」が3世紀代から成立していたとする通説では、この「倭国」を「ヤマト王権」ととらえ、かえって4世紀初頭から同王権がすでに対外進出を図っていたことの根拠に援用するかもしれないが、我々の畿内王権はこの時期、まだ存在すらしていなかったのである。
 4世紀初頭に新羅と独自に通婚関係を締結する実力を備えた「倭国」といえば、邪馬台国時代、同国に統属しながら世襲の王が存在し、「郡使の往来常に駐まる所」(『魏志』)であった伊都国をおいてほかにあるまい。
 この時期の伊都国が新羅との通婚関係に動いたのは、邪馬台国解体後の新たな発展の活路として、新羅との通婚関係を足がかりに朝鮮半島への進出を図ったものと考えられる。
 このように、新羅との通婚が伊都国にとって手段にすぎなかったことが間もなく明らかとなる。『三国史記』によると、「倭国」は344年にも再び通婚を求めてきたが、今度は新羅側がこれを拒否したことから翌年、倭王は国交断絶を通告、346年には倭兵が新羅に侵攻し、風島(現地名不明)を略奪した後、王都・金城に進軍・包囲した。これに対して、新羅は城門を閉ざして兵糧攻めにし、倭兵側の糧食が尽きて退却を始めたところへ騎兵を出して追撃・敗走させたという。
 この後、しばらく間を置いて、364年の奈勿尼師今[なもつにしきん]9年に再び倭兵が侵攻してきたが、今度は草人形数千体を作って並べ、倭兵が直進してきたところへ千人の兵で待ち伏せ攻撃をかけ、倭兵を敗走・壊滅させたという。
 その後、倭兵の新羅侵攻は4世紀も末の390年代まで30年近く停止するが、伊都国が4世紀中頃に成立した新興の畿内王権に服属したのは、こうして二度にわたる対新羅戦惨敗で国力が弱化した時期のことと推測できる。
 この服属を示唆する史料として、『書紀』の仲哀紀に架上された伊都県主[いとのあがたぬし]の先祖・五十迹手[いとて]の服属場面がある。それによると、五十迹手は大きな賢木を根こぎにして、船の船首と船尾に立て、上枝には八尺瓊[やさかに]を、中枝には白銅鏡(ますみのかがみ)を、下枝には十握剣[とつかのつるぎ]をかけるという服属儀礼をもって仲哀天皇を出迎えている。
 この五十迹手とはすなわち伊都手であり、伊都国王の象徴と見られる。「仲哀天皇」は神功皇后の夫にして、応神天皇の父として、応神を統一的な皇統譜に組み入れるために作り出されたつなぎの架空人物と解されるが、伊都国の服属自体は4世紀後葉の重要な史実として取ることができる。
 こうした畿内王権による伊都国征服作戦に際しては、前にも言及したように、邪馬台国解体後、糸島の内陸部に一定の王権を形成していた糸島残留加耶系勢力の子孫らが、先祖を同じくする同族として協力した可能性がある。ただ、この糸島加耶系王権は独自的な発展を見ず、ほどなくして優勢な畿内加耶系王権に吸収される形で消滅したものであろう。

服属の成果
 伊都国の服属は、畿内王権にとって大きな成果をもたらした。まず、何と言っても、初めに述べたように、朝鮮半島への海の玄関口が確保され、王家ルーツである金官加耶国及び周辺加耶諸国との交流が容易になったばかりでなく、次節に見るように、やがて倭の歴史を大きく変えることとなる百済との修好も開かれるのである。
 それに加えて、沿岸国の伊都国には強力な水軍があり、これをそのまま畿内王権の水軍として編入することができたことは、畿内王権の外交軍事力を高めることにも寄与したであろう。
 一方で、伊都国からは伝統的な「反新羅」の外交姿勢―なぜ伝統的に「反新羅」であったかは続く第四章で明かされる―をも継承することとなったが、これは後代まで尾を引く問題となった。
 そうした「反新羅」を象徴する出来事が393年に発生する。『三国史記』によると、この年5月、倭がおよそ30年ぶりに新羅に侵攻してきたが、今回の倭兵はかつてなく強力で、王都・金城を直撃して、5日間包囲を解かなかったという。新羅側では今度も城門を閉ざし、倭兵が退却を始めたところへ騎兵を出して退路を絶ちつつ、歩兵で残兵を独山(現地名不詳)に追い込み、挟撃する作戦でようやく撃退した。
 これに対応するもう一つの史料として、高句麗の「広開土王陵碑文」(以下、単に碑文という)の有名な記事、「倭以辛卯年来渡海破百残***羅以為臣民」(*は風化による判読不能部分)がある。
 これを素直に読むと、「倭が辛卯年(391年)以来、海を渡って百残(百済)***羅を破って臣民とした」となる。*の部分は「百済加羅新羅」とも埋められるので、この時期に「大和朝廷」が朝鮮半島に攻め込んでそこに「宮家」を設定したとする「三韓征伐」の根拠として援用されてきた箇所でもある。
 特に、この碑文は19世紀末に明治政府の参謀本部がその拓本を入手して、軍部主導で解析を進めたことから、当時の参謀本部が朝鮮支配を正当化するために改ざんしたとの説が戦後に提起されたが、その後の研究でこの説は否定されている。
 しかし、改ざんされていないにせよ、この時期の倭が百済まで攻め込んで同国を破るとは考えられない。なぜなら、百済は近尚古王代(在位346‐374)に強勢化し、371年には高句麗を攻めて大勝利を収め、396年になって高句麗の広開土王(好太王)に破られるまで、軍事的優勢が続くからである。また、判読不能部分に「加羅」(加耶)が入るとしても、畿内王権にとってのルーツである加耶諸国を侵略するとは考えにくい。
 結局、碑文の391年記事は、2年の誤差はあるものの、『三国史記』の393年記事、すなわち「金城5日包囲」に照応すると解すべきであろう。
 碑文記事が誇張されているのは、高句麗の情報不足によるものか、そうでなければ「百済加羅新羅」がいかに弱体であるかを示して、反面、高句麗の強大さを強調する狙いがあるものと思われる。
 ただ、こうしたかつてない大規模な新羅侵攻作戦は、畿内王権が伊都国の水軍力を利用しつつ実行したものと考えられる。これを示唆する史料として、『播磨国風土記』に、播磨国因達里[いたてのさと]の由来に絡めて、伊太代(いたて)神が息長帯比売命神功皇后)の三韓征伐で御船前(先導役)を務めたという伝承が記されている。
 播磨国総社である射楯兵主神社[いたてひょうずじんじゃ]に祀られるこの伊太代(因達、射楯)とは、『書紀』にも登場した伊都県主の先祖・五十迹手と実質的に同一人物の神格化である。この五十迹手、すなわち伊都国王が神功皇后の先導役を務めたという伝承は、まさに畿内王権が伊都国を服属させたことの傍証となる。もっとも、なぜ伊都国王が根拠地糸島から遠く離れた播磨国に神として鎮座しているのかについては、次の第四章で解明される。