歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第13回)

第三章 4世紀の倭

(5)百済との修好

百済の接近
 先述したように、百済は4世紀後葉には高句麗をも抑えて軍事的優位に立っていたが、広開土王陵碑文では396年(『三国史記』では395年)に高句麗に惨敗し、半島の覇権が再び高句麗に移る。百済が倭に公式に修好を求めてきたのは、このような微妙な時期であった。
 『三国史記百済本紀には、阿莘王[あしんおう]6年(399年)に倭国と修好し、太子の腆支[てんし]を質として送ったことが記されている。これは、百済高句麗に惨敗した1年ないし2年後のことであるから、百済の狙いは高句麗対策として倭国を抱き込み、特にその水軍力を利用して反転攻勢に出ようとすることにあったと考えられる。
 これに対して、碑文は2年違いで399年に百済が宣誓に反して倭と和通したと非難している。この「宣誓違反」とは、396年に百済高句麗に惨敗した後、阿莘王が高句麗好太王(広開土王)に対して今後永久に臣従するとした誓いに反し、無断で倭と修好したことを指している。
 ちなみに、『書紀』では神功摂政紀47年、百済の尚古王(近尚古王)が初めて朝貢し、同52年には七枝刀[ななつさやのたち]などを献上したとある。この記述を例の石上神宮所蔵七支刀と結びつけて、碑文に刻印された「泰和四年」=中国・東晋の太和四年(西暦369年)に近尚古王が太子貴須(後の近仇首王)名義で(または太子とともに)倭国王に献上したものとするのが通説である。
 しかし、近尚古王代の倭との修好は朝鮮側史料に全く見えないことや、ましてこの時期、半島の最強国であった百済が倭を上国として臣従するいわれもないことから(もし倭が上国ならば王でなく格下の太子名義での献上は不自然である)、少なくとも公式の修好は4世紀末の阿莘王代に始まったと解される(そう解した場合の七支刀の年号問題に関しては第五章で解明する)。
 なお、『書紀』応神紀3年条は、阿莘王即位の経緯として、一代前の辰斯[しんし]王が貴国(倭)の天皇に対して非礼行為を働いたので、役人らを派遣して問責したところ、百済では王を殺して陳謝したことから、役人らは阿花王(阿莘王)を立てて帰国したという記事を架上しているが、もとより朝鮮側史料に対応記事は見えない。
 この記事は、かえって百済との公式の修好は阿莘王代から始まるにすぎないことを隠蔽し、「三韓征伐」と倭の朝鮮支配というフィクションを根拠づけるための作為であることを露呈しているように思われる。

腆支太子の任務
 阿莘王の命で397年に倭に派遣されてきた腆支太子は朝鮮側史料の『三国史記』でも「質」(人質)と明記されているため、通説は百済が上国である倭に太子を差し出して領土の保証を求めたものと都合よく解釈している。
 しかし、職業外交官の制度が存在しなかった古代における「質」とは文字どおりの人質ではなく、外交官兼工作員であったと考えられる。現代の外交官はかえって派遣先の外国で保護され、各種の特権を享受するが、古代の「質」は派遣先の外国に生命をすら委ねつつ、本国のために命がけで外交的工作と一種の諜報活動の密命をも実行したのである。
 阿莘王は後継者の太子をこのような「質」として倭へ差し向けた以上、高句麗への報復戦を成功させるため、倭を抱き込むことに並々ならぬ決意を持っていたものであろう。
 その成果か、碑文には5世紀に入って404年に倭軍が帯方界(高句麗南西部)に侵入したので撃退し、無数の首を斬ったとの記事が見える。倭が百済の代理戦を実行したが失敗したということかもしれない。
 一方、注目されるのは、新羅も5世紀に入って、実聖尼師今代の402年に、前国王奈勿の王子・未斯欣[みしきん]をやはり質として倭に派遣してきたことである。
 碑文によれば、新羅は399年、高句麗好太王に、倭人が国境に満ち溢れ城塞を撃破し攻囲しているとして援軍を要請したのに対し、高句麗は翌年、5万の兵をもって新羅城に駆けつけたところ、たしかに城内に倭兵が満ちていたとあるから、今回の畿内王権軍は城内(金城か)に侵入するほど激しい攻撃をしかけていたようである。
 このときは結局、高句麗軍が倭軍を撃退し、任那加羅まで追撃したというが、新羅は以後倭による侵攻をやめさせる外交工作を展開するため、王族を倭に派遣してきたものであろう。従って、百済太子腆支とは異なり、未斯欣は本来の意味の「質」に近いと言えよう。
 この点、『三国史記』の列伝朴堤上条には、「百済人」が前に倭に入って、新羅高句麗が謀って倭国を攻撃しようとしていると讒言したとある。そのために、倭は兵を送って新羅の国境付近を巡視していたところ、たまたま高句麗も侵攻してきて倭の巡視兵を捕らえて殺したため、倭王百済人の情報を信じたという。
 この記事は新羅の救援要請という新羅にとって不都合な事実をカットしている点を除けば、先の碑文の399年と400年の記事に対応している。すると、讒言した百済人の先客といえば腆支以外に考えられないから、彼は高句麗新羅の共謀関係を倭に吹き込んで、倭を両国と敵対させ、もって百済と密着させるように仕向ける工作をしたことになり、彼の帯びていた密命がここに明かされているわけである。
 こうして、立派に任務を遂行した腆支は405年に父・阿莘王死去を受け、王位に就くため本国へ帰任するが、この時、倭は兵士100人を護衛につけて送り出している。
 一方、新羅の質・未斯欣は腆支とは好対照な運命を味わった。彼はほとんど何の成果も上げられないまま、16年も倭に抑留されたあげく、実聖王の要請を受け未斯欣奪還役を買って出てきた将軍・朴堤上(別名・毛末)とともに新たな新羅侵攻の水先案内人にさせられかけ、命からがら本国へ逃げ帰ったのである。
 その過程で朴将軍が倭に惨殺される悲劇的な大活劇は、朝鮮側の『三国史記』及び『三国遺事』の両史料のはか、『書紀』でも実質的に同一の記事が神功摂政紀に架上されている(未斯欣は微叱己知、朴堤上は毛麻利叱智の名で登場する)ことからも、両国で後世まで語り草となっていたものであろう。
 このような新羅の対倭外交工作の失敗も、裏を返せば腆支太子(後の腆支王)を使った百済の外交工作の成果なのであった。

「謎の4世紀」に朝鮮側史料に現れる「倭」とは、その前半には九州北部の伊都国、後半になるとその伊都国を服属させた畿内加耶系王権(ニニギ朝)を意味するものと考えられる。要するに、4世紀とは「倭」の中心がそれまでの九州北部から畿内へ移動していった歴史的な過渡期であり、その触媒となったのが、西日本各地に移住してきた加耶系渡来集団であった。
では、しばしばヤマトと並び称されるイヅモにはどのような勢力がどのように展開していったのであろうか。