歴史の余白

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天皇の誕生(連載第19回)

第五章 「倭の五王」の新解釈

5世紀に入って、中国南朝宋に連続的に遣使したことが記される「倭の五王」。讃・珍・済・興・武と中国式一字名でイニシャルのように記された五王は、果たして一連の「倭国王」であったのであろうか。

(1)「讃」と「珍」の遣使

「讃」の遣使まで
 4世紀には中国側史書から姿を消していた倭の動向が久しぶりに中国側史書で確認されるのは、『宋書倭国伝に見えるいわゆる「倭の五王」の筆頭「讃」による421年の南朝宋への遣使である。
 これは、邪馬台国女王・台与によると見られる266年の西晋遣使から数えて実におよそ160年ぶりとなる中国外交の再開であり、この長い外交的ブランクも3世紀の邪馬台国と4世紀以降の畿内王権とが連続していないことの傍証の一つとなる。
 このようにおよそ1世紀半ぶりとなる中国外交再開―実質上は新規外交―の背景を考える前提として、それまでの経緯を追ってみたい。
 まず、第三章の末尾で見たように、4世紀末に畿内王権と百済との修好が正式に開かれ、「質」として派遣されてきて外交・諜報工作を担った腆支太子が405年、父・阿莘王死去を受けて王位に就くため、倭兵の護衛を受けて帰国したことは記した。
 王位に就いた腆支がまず初めに取り組んだことは、父王の遺志を継いで、父王の代に高句麗に奪われた半島の覇権を取り戻すことであったが、そのためには強力な水軍を擁する倭をいっそう緊密に百済陣営に組み込み、百済の勢力圏に収めておく必要があった。
 そこで彼は、中国式冊封体制に準じて倭王を授封し、倭を侯国化することで、百済の勢力圏に置くことを企てたのである。百済は後代の5世紀後葉に入ると、支配領域に王・侯を配置して統制する王・侯制を施行するが、その原初形態は5世紀初頭の腆支王代に開始されたと考えられる。ただ、半島領土で王・侯に任ぜられるのは王族であったが、倭という枢要な外地では、倭王百済王族に準じた地位で処遇しようとしたものであろう。
 私見によれば、こうした百済による倭の侯国化を認証するしるしが、次のような銘文が金象嵌で刻まれた例の石上神宮所蔵七支刀なのである(*は判読不能箇所)。

(表)泰*四年*月十六日丙午正陽造百錬鉄七支刀*辟百兵宜供侯王****作
(裏)先世以来未有此刀百濟王世子奇生聖音故為倭王旨造伝示後世

 この銘文冒頭に記された「泰*四年」という年紀について、通説は宋の一つ前の南朝であった東晋の年号「太和四年」(西暦369年)と読み、同年に時の百済王子・貴須(近尚古王の子で、後の近仇首王)が「倭王旨」に献上したものと解釈していることは、第三章でも紹介した(実際上369年説内部でも銘文解釈は様々に分かれている)。
 しかし、東晋の年号は「泰和」ではなく「太和」であり、複雑な象嵌技法で「太」を画数の多い「泰」に造るのも不自然であること、仮に倭が百済の上国であれば、天子の臣下を意味する「侯王」という表現は無礼であること、一般に倭との外交関係記事を重視する『三国史記』には近尚古王代に倭と修好した記事が見えないことなどから、369年説には疑問が多い。
 もっとも、より対等な関係の修好がこの時に開かれたと修正的に解釈する説もあるが、それにしても「侯王」という呼びかけは無礼であるし、また王子ごときが王に献物するというのも真に「対等」とは言えない(百済王と世子の連名と解する説もあるが、立ち入らない)。
 この点、私見によった場合の銘文の読み方としては、「奇生聖音」の箇所を、通説とは異なり、「奇しくも聖音に生き」(計らずも釈尊の加護の下に生きて)と解釈する少数説を採ったうえで、腆支王が倭王百済の侯王として認証したしるしに下賜したものが七支刀であると解することになる。
 ちなみに、「首」に通ずる「旨」とは、当時まだ漢字が普及していなかった倭の独自の王号ではなく、まさに腆支が百済の侯王たる倭王に授号した王号と推定される。
 このように解した場合、「泰和四年」とは東晋ではなく、百済の独自年号であり、それは腆支王四年(408年)に当たる。これを間接に裏づける記録として、『三国史記』は409年に倭が遣使して夜明珠(蛍光性の宝石か)を贈り、腆支王が優礼して接待したとある。前年の七支刀下賜のことは記事に見えないが、409年の倭の遣使はその前年の侯王叙任への答礼と見ることもできる。
 ところで、腆支王がこのような年号を建元したと推定される根拠として、父の仇であり、同時代のライバルでもあった高句麗好太王(広開土王)が「永楽」という類似年号を建元していたことへの対抗心に加え、腆支王が一種の「革命」によって王位に就いたことも関係している。
 『三国史記』によると、阿辛王死去後、腆支の二番目の弟・訓解が摂政に就き、腆支太子の帰国を待っていたが、王の末弟・磔礼[せつれい]が訓解を殺して王位を簒奪してしまった。
 一方、腆支は倭にあって父王の訃報に接し、帰国を請い、倭兵の護衛を受けて百済国境へ達すると、王都・漢城からの使いが来て、情勢説明があり、帰国を控えるよう忠告されたので、倭兵を引き留めて警護させ、海中の島で時機を待った。そうするうちに、民衆が王位簒奪者・磔礼を殺害して腆支を王に迎えたという。
 こうした即位の経緯からも、腆支王は人心一新と政情安定を願って、「泰和」という年号を制定したものと思われるのである。
 ちなみに、「百済世子が奇しくも聖音に生きた」という一句には、百済世子として倭の「質」となって命がけで外交工作に携わったうえ、無事帰国したものの、如上のような「革命」の結果王位に就いた波乱の人生を振り返っての感慨が込められており、こうした点でも、これを形式的に貴須王子などに当てはめるよりも合理的ではないだろうか。
 なお、銘文中に「聖音」というような仏教的文言が見られるのは、百済には早くも384年に東晋から仏教が伝来していたことから説明がつく。もっとも、仏教の普及は百済でも6世紀代と見られているが、王族など支配層の間では徐々に浸透し、改まった文脈では仏教的文言も用いられるようになっていたものと思われる。

補注 私見によった場合の銘文解釈は、さしあたり次のようになる。(表)泰和四年*月十六日丙午の正午、百回も鍛えた鉄の七支刀を造った。この刀なら百回の戦でも避けることができ、恭しい侯王にふさわしかろう。(裏)いまだかつてこのような刀はなかった。百済王世子(たる自分)は計らずも釈尊の加護の下に生きたことから、倭王旨のためにこの刀を造り、後世まで伝え示さんとするものである。

「讃」の遣使の背景
 こうして倭(畿内王権)は5世紀初頭、百済の侯国としてその勢力圏に組み込まれたとはいえ、中国の冊封と同様、それは多分にして形式的・儀礼的な臣従にすぎず、内政外交全般が百済の統制下に入ったわけではなかった。
 それでも、特に外交に関しては一定の制約があったと見られ、倭王名義での独自の中国遣使は制限されていたのではないだろうか。その傍証と言えるのは、『宋書』では最初の遣使者・讃を「倭讃」、あるいは単に「讃」としか記しておらず、珍以下の四王とは異なり、王称が付されていないことである。
 そのこととも関連して、初回の421年遣使でも、皇帝(高祖・武帝)は「倭讃」の遠方からの遣使をほめて除授を賜うであろうと詔しながら、具体的には何も除正された形跡がない。次いで、讃は425年にも、司馬曹達なる使者を派遣して、上表文を提出し、特産品を献上したとあるが、ただそれだけで、やはり何の除正も記されない。
 要するに、宋側でも「讃」が独立国の王かどうかを確認できず、正式の冊封は保留したとしか考えられないのである。これは、百済が宋建国の420年に直ちに冊封されたのとは対照的である。
 一方、百済では420年に腆支王が死去し、子の久爾辛[くにしん]が即位するが、この王は弱体で『三国史記』でも何の事績も記されないまま、427年に死去している。
 おそらく、倭王畿内王権の首長)であったことは間違いない讃は、腆支王死去のタイミングを見計らって、翌421年に独自の中国遣使に踏み切ったつもりであったが、百済の侯王という地位に制約されて、独自に「倭国王」名義を使うことができず、中国側からその心意気は買われたものの、倭国王としての認証すら受けられなかったのである。二度目の遣使では、司馬姓の漢人系(もしくは漢族系百済人)かと思われる使者まで遣わし、上表文も提出したにもかかわらず、結果は得られなかった。こうして、讃による遣使は失敗に終わったのである。

「珍」の誇大自称
 次に『宋書』が記録する倭の遣使は、讃の弟とされる「珍」による438年の遣使である。珍は兄王の失敗を反省してか、今度は一転して、「使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」なる大仰な自称をしたうえで、除正を求めたのであった。
 この自称で「使持節都督諸軍事」とは、当該地域の軍事統制権を中国皇帝から授権された総督であることを示しているが、注目されるのはここに「百済」を含めて、倭国王百済まで軍事的に統制しているように主張したことである。
 これは、この時代、倭が百済の侯国であったことを考えれば、全く逆であった。思うに、珍は宋の皇帝から百済に対する軍事統制権まで含めた除正を受けることで、百済の侯国という地位から脱しようとしたものであろう。
 ところが、宋はすでに百済冊封していたのであるから、珍の主張の嘘は直ちに見破られた。その証拠に、珍の除正は単なる「安東将軍・倭国王」にとどまったのであった。今度は、一応「倭国王」の認証は得られたものの、百済王が授号されていた「鎮東大将軍」号よりも格下の「安東将軍」号のみで、希望した使持節都督の除正は受けられなかったわけである。
 しかも、倭国王百済を支配しているかのような自称をしたことは、当の百済にも伝わったであろうことは想像に難くない。時の百済王は、427年の久爾辛王死去を受けて即位した久爾辛王の子(『三国史記』は腆支王の庶子説も併記する)・毗有[ひゆう]王であった。
 この王はかなり有能で、引き続き懸案である対高句麗政策として、4世紀以来敵対関係にあった新羅と同盟する歴史的な外交政策の転換を行った(433)。これによって、半島情勢は大きく変化する。このことが、倭にも大きく影響してくる。
 先述したように、倭(畿内王権)は伊都国を服属させて以来、伊都国の「反新羅」の立場を継承し、大規模な新羅侵攻作戦を展開していた。一方、王族未斯欣を「質」に使った新羅の対倭外交工作も未斯欣の逃亡事件で失敗に帰していた。
 そこで、毗有王としては、祖父(もしくは父)の腆支王が敷いた倭を侯国化する政策をさらに強化して、倭の反新羅政策を改めさせる必要を感じていたであろう。そうした時に、百済を倭が統制しているかのように偽った自称の下、倭王が独断で宋へ遣使したとの報が王の耳に入ってきたのである。