歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第18回)

第四章 伊都勢力とイヅモ

(4)出雲東部勢力の興隆

意宇王権とその由来
 正史の中でいわゆる出雲として描かれたきた勢力―言わば大国主のイヅモ―は、前回まで見てきたイトモの伊都勢力とは異なり、東側の意宇[おう]と呼ばれた地域を拠点とする勢力であった。
 通説では漠然と「大きな国の主」の意味だとされている「大国主」も、本来は「オウ(ノ)クニ」(意宇国)の「ヌシ」(首長、王)という意味であって、まさに意宇国を象徴する始祖神なのである。
 ただ、実際にこの意宇国の王家であったのは、今日の出雲大社宮司家(旧出雲国造家)であるが、かれらの始祖神は本来大国主ではなく、アマテラスの子神で、天孫降臨に先立って葦原中国に「国譲り」の交渉に遣わされながら、大国主におもねって3年間も復命しなかったと非難される天穂日命アメノホヒノミコト]である。
 しかし、『出雲国風土記』では、このアメノホヒ=天乃夫比は、適切に任務を遂行したとされているところを見ると、意宇王家本来の始祖神であるアメノホヒ高天原の不忠な使いの神に格下げされたうえ、大国主が出雲の統一的な始祖神とされたのは、意宇王権が畿内王権に統合され、王家が国造家に格下げされたことに照応する政治的作為と考えられる。
 最盛期の意宇王権がそれこそ相当に「大きな国」であったらしいことは、今日の松江市安来市を中心とした美保湾一帯に築造された方墳や前方後方墳を特徴とする古墳が300近くに上ることからもわかる。
 この王権の支配地域が東側の伯耆国やそのさらに東の因幡国にまで及んでいた可能性もあることは、大国主が皮を剥がされた兎を治療して助けた有名な「因幡の素兎」の伝説からもみてとれる。
 方墳や前方後方墳などの文化的な連続性という点では、畿内王権の軍部を構成した大来目(久米)軍団の故地・岡山県久米郡一帯とも一体的であることからして、意宇の勢力の一部が伯耆因幡を経由して、久米方面へも南下していったと想定することもできる。
 この意宇王権の祖が元からの在地勢力か、渡来系勢力かは難問であり、通説は在地勢力であることを当然の前提とするようである。しかし、出雲東部から伯耆にかけて高句麗の方壇積石塚に源流を持つとされる四隅突出型墳丘墓が集中的に分布していること、また久米地方と併せてやはり高句麗的特徴である方墳が多いことからすると、意宇王権の母体も高句麗系渡来勢力であった可能性はある。
 しかし、『出雲国風土記』の始祖神話には、金蛙に幽閉された女が日光の光線を受けて生んだ卵から孵ったのが高句麗始祖・朱蒙であるという高句麗建国神話と同型の神話が見当たらないことから、単純に「高句麗系」とは言い切れないところもある。
 そうした場合、高句麗そのものよりも、3世紀頃までに勃興期の高句麗に征服され、その版図となり、高句麗化した沃沮[よくそ]・東ワイ系の渡来勢力を想定してみたい。
 この部族は、今日の北朝鮮咸鏡南道東海岸や咸興付近に展開したが、このあたりから舟で日本列島側に出ると、鬱陵島、独島(竹島)から隠岐を経て美保湾一帯に漂着することになり、渡来コースとしても合理的である。
 かれらの渡来の要因として、民族的には高句麗を建てた扶余族とも近縁とされる沃沮・東ワイは、氏族共同体的遺風を克服して国を形成できないまま、高句麗に征服併合されたという点で、小邦分立が続いた加耶地方とはまた違った意味から流民を出しやすかったと考えられる。

出雲西部への進出
 イヅモの歴史とは、東側の意宇王権が5世紀後半頃から実力をつけ、西側のイトモへ進出していくところから始まると言ってよい。
 ただ、意宇王権はその神話の豊饒さから見て、すぐれた神権政治勢力ではあったが、軍事的にさほど強大であったとは思われない。それがイヅモ全土の支配者に成長し得たことには、畿内王権の軍事援助が切り札となったとしか考えられないのである。
 その軍事援助がどのようにして行われたかは改めて後述するとして、この意宇王権の西側進出を裏づける最も大きな事実は、何と言ってもイトモの拠点たる杵築大社の祭神がイソタケルから大国主にすりかわってしまったことである。この事実は、どのような方法によってかはともかくとして、意宇王権がイトモの伊都勢力を征服したことを示している。
 では、それ以前の意宇王権自身の宗教的拠点はどこかと言えば、東側のまさに旧意宇郡にある熊野大社であったと考えられる。実は、平安時代初期までは熊野大社のほうが信仰を集めており、杵築大社(出雲大社)はマイナーな存在であった。
 このように熊野大社こそが意宇王権のメッカであったことの名残は、今日でも鑽火祭[さんかさい]という祭事で、火を鑽り出すのに使う燧臼[ひきりうす]と燧杵[ひきりきね]を、出雲大社宮司自らが持参する大きな餅と引き換えに熊野大社から授かるというならわしに表れている。この際、熊野大社側では下級神職が応対し、餅の大きさや形に文句をつけるという習慣がある。この儀式上は明らかに出雲大社のほうが熊野大社より格下なのである。
 意宇王権が西側へ進出していったことのもう一つの痕跡として、出雲を越えて石見にも大田という地名が今なお残されていることである。現に、イトモの伊都勢力の象徴である五十猛神社は大田市内に所在する。
 この「大田」も今日では「おおだ」と読ませるが、『和名抄』では「邑陀」と表記され、本来は「おうだ」(=意宇田)と読まれるべきものであろう。この地名は、意宇王権が最終的に石見国東部までその支配下に収めるに至ったことを暗示している。
 また、『出雲国風土記』意宇郡条に収められた有名な「国引き」の物語では、志羅紀(新羅)から余った岬を網で引き寄せたのが、去受[こず]の折絶[おりたえ](現平田市)から支豆支(杵築)の御埼にかけて、すなわち出雲国西部地域だとされているが、ここで言う「志羅紀」を辰韓系伊都勢力と解釈してみると、「国引き」も、東側の意宇王権が西側のイトモとその周辺地域を伊都勢力から奪取したことの暗喩と読むこともできそうである。
 こうした意宇王権によるイトモ征服が最終的に完了するのは早く見ても6世紀初頭のことであり、それには畿内王権との同盟というプロセスを経なければならなかったのである。

「国譲り」の真相
 日本神話のキーワードとも言える「出雲の国譲り」とは、上記のような意宇に拠点を置いた出雲東部勢力が植民市イトモに拠った西部勢力(伊都勢力)を征服し、統一イヅモを建てる過程で、またはその前提として、畿内王権と同盟関係を結び、軍事援助を受けたことを契機として、なし崩し的に畿内王権に統合されるようになっていった歴史的なプロセスの全体をドラマチックに神話化したものにすぎない。
 それは軍事的な征服によるものではなかったから、神話にあるように交渉による「国譲り」というプロットにまとめられることになったし、出雲の神々は独自の地位を与えられ、そのメッカとなった出雲大社は後々皇室からも尊重されたのである。
 しかし一方で、出雲の神々はスサノオという高天原系の悪神の系譜に組み込まれ、本来の祖先神であるアメノホヒ高天原からの不忠な使い役に格下げされたうえ、大国主なる仮想的な祖先神を設定されるという形で、イヅモは神代からヤマトに従属していたことにされたのであった。
 畿内王権が意宇王権を単純に軍事的に征服するのではなく、このように手の込んだ統合の方法を採用した事情として、当時の畿内王権自身もイトモの勢力を撃滅しなければならない独自の理由を抱えており、そのために同盟相手を必要としたということと、畿内王権自身の宗教政策として意宇王権の宗教を利用すべく、一種の神聖同盟を目指したということの二つがあると考えられるのであるが、こうしたことを解明する前提として、次章で改めて5世紀代における畿内王権の動向を把握しておかねばならない次第である。

いわゆる出雲とは、九州の伊都国が畿内王権に征服された後、同国から拡散・移住した勢力(伊都勢力)が5世紀前半、出雲西部(今日の出雲大社周辺)に建てた植民市イトモを、東部から発祥した意宇王権が6世紀初頭頃に畿内王権と同盟しつつ征服した結果として成立したクニである。
では、この5世紀前半から6世紀初頭にかけての畿内王権側では何が起きていたのであろうか。