歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第20回)

第五章 「倭の五王」の新解釈

(2)「珍」と「済」の関係

「続柄不明」問題
 『宋書』によると、珍の後、443年に倭国王・済が遣使してきた。ところが、同書は前の珍と済との続柄を記していない。同書は原則として前後の続柄を明記している五王の中で、珍と済の関係だけは何も言及しないため、その沈黙の意味が問題とされてきた。
 ただし、後の唐代に編纂された『梁書』では、珍が「彌」に補正されたうえ、彌と済は親子関係とされている。しかし、これは200年近くも後の時代の史書であって、五王の遣使があった5世紀代の同時代に編纂された『宋書』が続柄を記さなかったということには重大な意味がある。
 これを単なる記載漏れとして片づける説もあるが、妥当とは思われない。なぜなら、冒頭触れたように、『宋書』は五王の他の続柄は原則として明記している以上、珍と済の続柄だけは偶発的に落としたとは考えにくいからである。
 そうすると、結局、宋側では珍と済の続柄を把握できなかったのだとみなさざるを得ない。なぜ把握できなかったかと言えば、済が説明しなかったか、もしくは宋側が済の説明に疑問を持ったためということになろう。
 いずれにせよ、済が珍との関係について単純明快な説明を与えなかった理由については次節で改めて検討することにしよう。

「済」の全うな遣使
 済は、443年と451年の二度遣使した記録が残るが、初めの443年にはただ単に「倭国王」とだけ自称している。これは、前の珍が例の大仰な自称をしたこととは対照的である。済はなぜ珍が希望して果たせなかった「使持節都督」の称号獲得にもう一度トライしようとしなかったのだろうか。
 一つには、先代の珍が誇大な自称をして失敗したことの反省に立って、ということも考えられようが、済が珍とは全く別系統の「倭国王」であったならば、珍のような自称をする必要がなかったということも考えられる。
 ところが、面白いことに、451年遣使の時には、宋側から初めて「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事」を除正されている。ただ、これが済の申請に基づくものか記されていない。どうやら済は珍とは異なり、自ら積極的に除正を求める意欲が乏しかったように見える。
 しかも、注目すべきは、宋が授与した「六国諸軍事」の管轄領域から百済が除外されている代わりに、「加羅」が加わったことである。
 百済を除外したのは、宋側ではすでに百済王に「都督諸軍事」の称号を授けていた以上、倭が百済を支配しているはずがないということを知っていたからであるが、一方で畿内王権の王家ルーツであり、小国ながらも独立国であった加羅加耶)を加えているのは、第三章でも触れたように、宋が朝鮮半島南部の実情を正確に把握していなかったことによるものであろう。
 ちなみに、新羅任那、秦韓、慕韓(馬韓)まで雑然と一括して―しかも、加羅と実質上重複する任那や、秦韓、馬韓など旧国名も混在する―倭国王の管轄領域に含めていることも不正確であり、これも宋が半島南部の情勢に明るくなかったことの表れと思われる。
 とはいえ、済は珍のように誇大な自称をしないことによって、かえって珍が望んだものにほぼ近い称号を見事ゲットしたわけで、全うな遣使の成果を出したのである。このことも珍との大きな違いであり、総じて言えば、済は前の讃・珍二王とは系統が異なるように思われてくるのである。

(3)「済」と「興」の正体

王朝交替説
 『宋書』によると、済が死去し、後を継いだ子の興が462年に遣使している。済の没年は記されていないが、451年から462年までの間に死去したことは確実である。興の遣使はほぼ父・済の遣使を踏襲したもので、別段新たな称号の除正を求めたこともなかったようである。
 宋側では、皇帝(第4代孝武帝)の詔をもって「倭王の世子興は、累代にわたる忠誠を継いで、海外で宋王朝の藩屏となり、開化し、辺境を平定し、恭しく貢献して、新たに辺境の王位を継いだ」と興をほめ、父・済と同じく「安東将軍・倭国王」を改めて授号している。
 皇帝は興に賛辞を送っているわりには、現状維持的で、先代の済と同様に扱っているのは、済・興父子の連続性の強さを物語っていると言えよう。
 そうすると、従来「倭の五王」とひとくくりにされてきた中でも、最初の讃・珍兄弟とその後の済・興父子(最後の「武」はさしあたり保留にしておく)とはやはり別系統と見たほうがよいように思われる。
 もっとも、先の興に対する孝武帝の詔の中で、「累代にわたる忠誠を継いで」云々とあることから、倭王家は連続的であるとする反論もあろうが、これはあくまでも宋側の認識を示したものであって、しかも詔での外交辞令であるから、そこに客観性を認めることには無理がある。
 そこで、仮に王朝交替を想定するとすれば、それは珍の遣使年とされる438年から、済の最初の遣使年である443年までの間に起きた事変ということになる。しかし、この間に倭国内部で王朝交替を裏づける根拠・史料は乏しく、憶測の域を出ないように思われる。

偽装遣使説
 讃・珍と済・興の間の不連続性を説明するもう一つの―いささか大胆な―仮説は、後の済・興の遣使は百済王による倭王を装った偽装遣使であったのではないかというものである。
 このような特異な遣使の背景事情として想起すべきは、前に述べた毗有王の登場である。彼は、高句麗対策として新羅との同盟という歴史的政策転換を決行したことから、百済のゆるやかな統制下にある侯国であった倭国に対する統制を強化することを企図していた。
 そこへ、倭国王珍による誇大自称による遣使の報が入った。しかし、『三国史記』でも平和的な事績が記録される毗有王はこれに怒って兵を差し向けるような人物ではなく、もっと手の込んだ術策を思いついた。それは、倭国独自の遣使を禁止するにとどまらず、百済側で倭国王名義を冒用して遣使するという方法である。
 これを間接的に裏づけるのは、先述したように、済の遣使はごく全うで、過大な除正を求めるものではなかったこと、一方で、宋側からの「使持節都督」の授号では「百済」が慎重に除外される内容となっていたこと、そして何よりも「済」という百済を想起させる意味深長な一字名を使用していたことである。
 ちなみに、毗有王は本来の百済王名義でも440年と445年に宋へ遣使しており、その間にはさむ形で「倭国王済」名義で遣使していたことになり、彼が高句麗対策として倭を含めて百済‐倭‐南朝というラインを強化しようと腐心していたことを裏づける。
 それにしても、毗有王は何故に百済王名義を直接に名乗らずに「倭国王」名義を冒用するという方法を採ったのであろうか。
 おそらく、東晋時代以来、自身が中国皇帝から冊封を受けていた百済王が宋から同様に冊封を受けていた倭王を侯王として一種の冊封を行うことは「無断二重冊封」として宋側の譴責を受けかねないため、その事実を秘する必要があったためではないかと思われる。
 そのうえで、百済としては倭単独の遣使の継続性を装って、先のような百済を除外した称号を倭国王に帯びさせることによって、かえって百済の独自性を強調するという効果をも狙ったものと推測できるのである。
 さて、このように済・興父子による一連の遣使を百済による偽装遣使ととらえた場合、「済」は毗有王に、「興」は455年に死去した毗有王を継いだ世子・蓋鹵王[がいろおう]に比定することができる。そして、この蓋鹵王による「興」名義での遣使が先の462年のそれであり、彼は「倭国王」として皇帝の賛辞を受けたわけである。

補注 偽装遣使説よりも穏当な仮説として、倭王百済の統制の下、その指示に従って遣使したとする考え方もあり得よう。ただ、この場合、珍と済の続柄不明問題が解き難くなる。なお、偽装遣使といっても、偽装の事実が宋側に発覚しないよう、実際の遣使は倭人団を使って実施したものであろう。