歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

弥助とガンニバル(連載第3回)

二 オスマン帝国奴隷制

 イスラーム世界における奴隷制はやがてイスラーム世界の覇者となったオスマン帝国に継承され、より大々的かつ体系的に制度化される。
 帝国の奴隷制には、主としてコーカサス・東欧方面から調達される白人系奴隷と、従来のザンジュ奴隷を引き継いだ黒人系奴隷の二種があったが、ここでは、主題との関わりで後者の黒人奴隷のみを概観する。
 オスマン帝国の黒人奴隷の供給源は、アフリカの大湖沼地域から中央アフリカなど比較的奥地にまで拡大されており、本連載の主人公の一人であるガンニバルも近年の研究では中央アフリカ付近の出身とみなされている。
 かれら黒人奴隷の大半は男性であり、帝国領内に連行された後は、家事奴隷のほか、下級兵士などとして使役されるのが通例であり、その立場は白人奴隷よりも低く、奴隷間にも人種差別があった。
 ただし、黒人奴隷にはもう一つ宦官の調達という別ルートがあった。これにはエチオピアコプトキリスト教会が協力しており、教会が黒人の少年を拘束し、去勢を施したうえ、オスマン帝国に売りつけていたのだった。
 このルートで購入された黒人去勢者は宦官として育成され、後宮に配属された。その頂点の宦官長は元来、黒人に限られたものではなかったが、次第に黒人宦官の独占ポストとなる。この黒人宦官長はスルターン及び後宮の実力者であるスルターン妃双方の権威を背景に、時に首相格の大宰相をも凌ぐ隠然たる政治的実力を備えるまでになる。
 著名な例として、1716年から30年にわたり宦官長を務めたベシル・アガーがいる。彼は時の大宰相によって引退に追い込まれかけると、対抗的にスルターン妃の力を借りて大宰相を罷免に追い込むほどの力を発揮したのだった。
 しかし、このような宦官としての栄達は黒人奴隷のごく一部の「幸運な」例であって、大多数の黒人奴隷の境遇は過酷なものだった。これらオスマン帝国の黒人奴隷の末裔たちは、現在でも「アフリカ系トルコ人」としてトルコ国民化されている。
 とはいえ、本連載の主人公ガンニバルは、一度はオスマン帝国に売られながら、奴隷化を免れ、ロシア帝国に「救出」された幸運児であった。