歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

シチリアとマルタ―言語の交差点(連載第7回)

六 イスラーム支配とシチリアアラビア語

 ビザンティン帝国支配下にあったシチリアは、9世紀以降、ビザンティンの支配力の低下に伴い、北アフリカ方面から侵攻してきたイスラーム勢力により蚕食されていく。9世紀前半から11世紀末まで続くイスラームシチリア首長国の時代の公用語アラビア語であり、首都パレルモアラビア語風にバルハルムと転訛した。
 シチリア首長国の支配層は北アフリカを支配していたアッバース朝ファーティマ朝から送り込まれたアラブ人総督とその家臣・従者であったが、シチリアに土着し、事実上の独立国家として200年以上持続したことにより、アラビア語シチリア方言、ないしはシチリアアラビア語という新たなアラビア語の一派が形成された。
 シチリアアラビア語北アフリカマグレブ)から持ち込まれたものであるので、その大きな属性はマグレブアラビア語に分類され、初めから標準アラビア語の変形であった。そのうえに、ギリシャ語やラテン語が使用されていたシチリアに転移・土着したことで、それら印欧語族系言語の影響をも被ったと考えられる。
 一方、現代のロマンス語シチリア語に対するシチリアアラビア語の影響は限定的であり、明瞭にアラビア語起源と同定される単語は、せいぜい100語程度にとどまる。その中で最も著名なのは、「マフィア」であろう。その他、イスラーム勢力が振興した農業に関連する単語にも、シチリアアラビア語起源のものが散見される。
 シチリアアラビア語は、シチリアを征服したノルマン人が建てたシチリア・ノルマン王国の治下でも生き残った。ノルマン王国はイスラーム勢力から支配権は奪ったが、イスラーム教徒を放逐はせず、特にイスラーム教徒知識人を積極的に登用したからである。
 しかも、フランス西部のノルマンディー公国を故地とする支配層ノルマン人は王家をはじめ極少数であったから、かれらの言語ノルマン・フランス語はシチリアでは根付かず、アラビア語ギリシャ語、さらにはラテン語も併存する多言語政策を採ることとなった。
 とりわけ、アラビア語は首都パレルモを中心とした東部、ギリシャ語はメッシナを中心とする西部で支配的となるというように、アラビア語ギリシャ語が二大言語として地域的な住み分けを生じたことが特徴的である。
 しかし、その後、シチリア・ノルマン王朝が絶えると、反イスラーム政策を採った神聖ローマ帝国治下で、アラビア語公用語から外され、最終的にスペインのアラゴン王国治下ではラテン語公用語とされたため、14世紀までに、アラビア語は―ギリシャ語ともども―、少なくともシチリアの公文書からは消滅してしまうのである。

土佐一条氏興亡物語(連載第3回)

三 公家大名・土佐一条氏の誕生

 土佐一条氏が、公家から大名に転化していったのは、土佐に疎開した一条教房が現地で晩年にもうけた次男房家の代以降である。彼は教房疎開中の土佐疎開中の文明七年(1475年)、父が50歳を過ぎてから、地元土豪の娘との間に生まれた子であった。従って、父が没した時、まだ幼児であった。
 30歳以上年長の兄政房は応仁の乱の渦中、戦死しており、房家は一条家本家の家督を継ぐ地位にあったはずだが、存命中の祖父兼良の意向により、本家家督は教房の実弟冬良が継ぐこととなった。おそらく、房家の幼年と母の身分素性を忌避してのことだったろう。
 結果、房家は土佐に土着して、土佐一条の家祖となる運命になったのである。小京都の完成は、この一条房家の代のことであり、同時に彼は単なる公家ではなく、応仁の乱後の戦国時代、自らも戦国大名に成長し、中村はその城下町ともなるのである。
 室町時代まで、土佐は細川氏が守護として治める地であったが、元来、守護代細川遠州家も在京しての間接統治であったうえ、細川氏のお家騒動である永正の錯乱(1507年)により、細川氏の支配がいっそう弱体化すると、土佐は地元土豪の割拠するところとなった。
 こうした土豪は俗に「土佐七雄」と呼ばれるが、当初は在京の細川遠州家の下、又守護代の地位にあった大平氏が優勢であった。大平氏平安時代に讃岐守護を任じられて以来、300年以上土佐の地にあった豪族で、縁戚関係のあった一条氏の疎開を仲介したのも大平氏であった。
 一方、管領細川政元との結びつきから土佐で実力を伸ばしていた長宗我部氏は永正の錯乱で政元が暗殺されると後ろ盾を失い、時の当主・長宗我部兼序は大平氏を含む他の土豪勢力の攻撃を受け、敗北した。この時、自害した兼序の遺児・国親を保護し、長宗我部氏再興を助けたのが一条房家であった。
 後年、土佐一条氏が長宗我部氏に乗っ取られることを考えると、このことは歴史的な皮肉であるが、当面、土佐一条氏は長宗我部氏と結んで大名化する一方、房家は公家としても正二位・土佐国司の地位を持ち、「七雄」を超える存在たる公家大名として、土佐の盟主にのし上がっていくのである。

クルド人の軌跡(連載第3回)

一 クルド人の形成

イスラーム化と地域首長国の形成
 中世におけるクルド人の活動が史料に現れるのは、10世紀半ばである。それまでクルド人は国家的なまとまりを持たず、部族ごとに遊牧生活を営んでいたと考えられるが、10世紀になると地域ごとにいくつかの首長国に統合されていった。
 この間、西アジアではアラビア半島に興ったイスラーム教団が武力も備えつつ、周辺地域に遠征を行って以来、イスラム帝国アッバース朝の支配の下、この地域のイスラーム化が確定していた。クルド人集住地域は西アジアから一部カフカ―スにまたがる辺境的な山岳地帯であったが、このような辺鄙な地域にもイスラームは浸透していた。
 そうしたクルド人イスラーム化の過程については史料が乏しく、不明な点が多いが、10世紀に現れるクルド人首長国はすべてイスラーム教を奉じていたことからみて、10世紀までにはクルド人イスラーム化が確定し、イスラームクルド人の国家的統合の触媒となったことは間違いない。
 なお、クルド人首長国は宗派的にはスンニ派主流という点で、同じく10世紀代に現れ、アッバース朝の実権を奪う形で一時西アジアの覇権を握ったブワイフ朝以来、シーア派が浸透していくイランとは対照的な歴史を歩むことになる。
 これら最初期のイスラームクルド人首長国として、10世紀代にはシャッダード朝、ラワード朝、ハサンワイフ朝、アナーズ朝、マルワーン朝の五つの首長国が競合していた。
 このうち、ラワード朝首長家の祖はこの地に移住してきたアラブ人であったが、クルド人を束ねてクルド化したものであり、クルド人イスラーム化を象徴する首長国と言えた。また、一介の羊飼いが建国したマルワーン朝に関しても、その出自をアラブ系とする資料もあり、イスラーム化の過程ではアラブ人移住民の影響が窺えるところである。
 これらの首長国の支配構造は一円支配的というよりは、各地域の主要都市を中心として点と点をつなぐような比較的支配密度の低い「国」であり、部族国家的な性格のものであった。
 五つの首長国中、最も早くに形成され、かつ長く存続したのは951年から1199年まで続いたシャッダード朝であるが、シャッダード朝を含め、競合国を征服して統一国家を樹立できた首長国は一つもなかった。その要因として根強い部族主義の伝統に加え、11世紀には中央アジアから出たセルジューク・トルコ西アジアの覇権を握ったことがある。
 クルド首長国は、セルジューク・トルコ(大セルジューク朝)より長く存続した上掲シャッダード朝を除けば、11世紀代に順次解体し、セルジューク・トルコの支配に置き換わっていく。その結果、クルド人トルコ人の結びつきが強まる。