歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

松平徳川女人列伝(連載第7回)

十一 鷹司孝子(1602年‐1674年)

 鷹司孝子は3代将軍徳川家光正室として、徳川将軍家に嫁いだ公家女性である。それ以前、初代家康、2代秀忠の正室はいずれも戦国武将家の子女から選ばれていたのに対し、三代目家光になって初めて公家から選ばれたのは、将軍位の世襲制が固まり、徳川幕府が一種の王朝化したのに対応し、将軍家も公家に近い格式を持つに至ったことの証しと言える。
 彼女が出自した鷹司家藤原北家流の五摂家の一つであり、関白をしばしば輩出する権勢家でもあった。孝子はそうした公家正室の初例となり、以後、歴代将軍の正室が原則として貴族または皇族から選考される先例を作ったという意味では、重要な人物である。
 とはいえ、完全な政略婚であるうえ、家光は当初、男色傾向が強かったことも手伝って、家光との間に実質的な夫婦関係はなく、家庭内別居・軟禁状態に置かれていたとされる。おそらくは、孝子の側も将軍家への入嫁は本意でなく、夫に愛情を感じることはなかったかもしれない。
 当然にも夫妻の間に子はできなかったが、以後、貴族または皇族出自の正室はいずれも実子としての嫡子(世子)を持たず、形式上・格式上の正妻にとどまるという事実上の慣例が形成されるが(男子が生まれた例は存在するも、夭折)、その先例となったのもまた、孝子であった。
 家光への孝子への冷遇ぶりは徹底しており、後に側室との間に生まれた息子たちと正室と間の形式的な養子縁組という慣例も破り、縁組をさせず、隔離状態に置いていた。これほどの冷遇の理由は定かではないが、個人的な感情より、公家を蔑視する武家の風潮の影響ということも考えられる。
 一方で、将軍家の縁戚となることによる恩賞という封建的な慣例は守っており、庶流ゆえに出世の道が限られていたため、異母姉の孝子を頼ってきた鷹司信平は家光から厚遇され、旗本に取り立てられたうえ、4代家綱の時には紀州徳川藩主の娘と婚姻したことで、松平の名乗りを許された。
 こうして創設された公家出自の鷹司松平家は寄合旗本を経て、後に5代将軍綱吉の時には1万石ながら親藩の江戸定府大名へと異例の栄進を遂げている。その結果、数少ない公家出自武家の中でも、近世大名化した唯一の例となっているが、これも家光による鷹司家厚遇の帰結である。
 孝子は家光の死に際しても金50両に道具類というわずかな手切れ金品しか渡されずに放り出されるような状態であったが、享年72歳と当時としてはかなり長生した。彼女の後も、鷹司家からは家光の子の5代綱吉、時代下って将軍世子時代の13代家定と、三人の正室を輩出しており、家光個人の意図はともかく、将軍家にとっては重要な外戚の一翼を担い続けた。

ユダヤ人の誕生(連載第7回)

Ⅱ 「出エジプト」の真相

(6)中央山地への移住
 前回、旧約の出エジプト物語はエジプト新王国によるヒクソスの駆逐の史実と重なる部分は認められるものの、それだけでは説明し切れず、別の史実の投影も想定しなければならないと述べた。
 この点で、エジプト第18王朝によるパレスチナ支配の確立という新状況を視野に置く必要があるかもしれない。長く続き、エジプトの再興を主導した同王朝は、紀元前15世紀半ば頃になると、パレスチナ各都市に代官を駐留させ、宗主としての支配を強めていた。
 ちょうどその頃から、パレスチナの中央山地で集落が急増するという考古学的事実が認められる。時代区分としては後期青銅器時代晩期から初期鉄器時代に当たるが、この頃エジプトによるパレスチナ支配は平野部を中心としており、山地は支配の及ばない空隙となっていたと見られる。このことは、平野部の民族であるエジプト人は山岳を苦手としたであろうことからも容易に想像がつく。
 この時期に山地集落が増えた理由としては、平野部の原カナン人の一部がエジプト支配を逃れてエジプトの支配が及ばない山地へ集団移住したということが考えられる。出エジプト物語では出エジプトの主たる動機は、エジプトにおけるユダヤ民族搾取からの解放ということにあったが、そうした搾取が行われていたとすれば、それはエジプト本国ではなくして、まさにパレスチナ=カナンの地においてであった可能性がある。
 そうしたエジプトによる一種の植民地支配を逃れるため、平野部の住民の一部が山地へ脱出した。これこそが、真の「出エジプト」であると考えられることもできる。
 後に旧約が編纂される過程で、先のヒクソス駆逐作戦による原カナン人の避難・帰還の伝承とその後におけるエジプトの支配する平野部から山地への集団移住の伝承とが合成されて、モーセの統率による出エジプトという壮大な物語が創作されたのではないだろうか。
 そう考えた場合、この中央山地に居住するようになった原カナン人こそ、ユダヤ民族の最初の核となった集団とみなしてよいであろう。それを裏書きするように、この時期の平野部の遺跡からは豚の骨が出土するのに、山地の遺跡からは出土しないという。このことは、山地住民の間で後のユダヤ教戒律につながる豚肉に関する禁忌がすでに形成されていたのではないかとの推定を導く。
 一方で、この時期の山地住民と平野部住民が全く別の民族であったことを示すほどの顕著な差異は認められないことからすると、両住民は元来同一民族集団に属したが、ある時点から別れて住むようになり、特に山地住民は狭隘な地で定住生活に入ったことで、宗教的にも独自のアイデンティティを共有し合う新たな民族としての意識を高めていったと考えられる。
 こうして、おおむね初期鉄器時代以降のパレスチナ中央山地住民こそが「出エジプト」した原ユダヤ民族(原イスラエル人)の始祖集団であったと考えれば、逆に、それ以前、ユダヤ民族はまだそれとしては存在していなかったということになる。 

 

外様小藩政治経済史(連載第15回)

四 福江藩の場合

 

(2)経済情勢
 福江藩が支配する五島列島は全般に山がちであり、農業適地とは言えず、稲作より畑作に傾斜していた反面、水産資源には恵まれており、藩の財政も水産に支えられていた。その点では、北海道の松前藩と同様、石高制による領地安堵があまり意味を持たない藩であった。
 実のところ、福江藩主・五島氏は、2代盛利の時代までは朝鮮貿易による収益も得ていたが、江戸開府後、幕府の貿易統制が強化され、藩内二か所の自由貿易港が閉鎖となって以降、朝鮮貿易の権利は対馬藩に一本化され、貿易利権を喪失した。
 それに加えて、寛文2年(1662年)には幼年で就任した4代藩主盛勝の後見役を務めた叔父の五島盛清が、後見役退任に際して、1万5千石中の富江領3000石を分知され、旗本・交代寄合として分立したことから、藩財政は分割され、打撃を受けた。
 この分知においてとりわけ問題を生じたのは、捕鯨であった。捕鯨有川湾で盛んであったところ、湾をはさんで福江領と富江領に分離された二つの漁村の間で捕鯨権紛争が生じたのである。この海境紛争は実に30年近くに及んだが、提訴を受けた幕府の裁定によって、福江領側の勝訴で決着した。
 これにより、捕鯨は藩財政において主軸的な歳入源となり、一時藩財政は潤ったが、二度の飢饉に見舞われ、財政難が深刻化する。このため、7代藩主盛道は、宝暦2年(1752年)、上知令による藩士の知行削減や幕府からの2000両借款で窮地をしのぐが、借款返済のため、農民から「高役銀」(労役を銀で代納する税制)の徴収を断行したことで、農民の窮乏を招いた。
 こうした窮乏は藩士の生活にも響き、同じく盛道が導入した悪名高い「三年奉公制」(領民の長女を除く娘が15乃至16歳に達すると、藩士宅で3年間無給奉公することを義務付ける制度)という隷役制度も、自力で使用人を雇えない藩士の救済を図る意味があったと見られる。
 寛政年間になると、農民数の激減に対処するため、8代藩主盛運[もりゆき]は、対岸の大村藩に農民の入植を要請し、最終的に3000人ほどの移住者を受け入れることで、農業立て直しを図らざるを得ないほどであった。
 しかし、19世紀に入ると、福江藩主の辺境領主的な地政学布置から、幕府により異国船に対する沿岸防備役を課せられたことに伴う財政負担により財政はますます逼迫したうえ、明和年間以来、再び海境紛争が再燃、40年にわたる係争の末、沿岸は各々、湾の沖合では双方に勝手捕鯨権を認めることとなったため、乱獲で捕鯨が衰退する結果を招いた。こうして、基幹産業も斜陽化する中、幕末を迎えることとなる。