歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

土佐一条氏興亡物語(連載第6回)

六 戦国大名・土佐一条氏の盛衰(下):没落へ

 土佐一条氏は、一条兼定の時代に長宗我部氏によって下剋上され、土佐の覇権を奪われる形で権勢を喪失したが、この時点で完全に滅亡したわけではなく、兼定の嫡子・内政[ただまさ]が長宗我部氏に擁立される形で存続はした。
 しかし、内政はまだ十歳そこそこの子どもであったうえに、一族の居城であった中村城を追われ、長宗我部氏の持城である大津城に移された。新たな在所にちなんで「大津御所」と呼ばれるようになったが、長じても実権はなく、長宗我部氏の傀儡にすぎなかった。
 長宗我部氏が何故一挙に一条氏を滅ぼさなかったかは不明であるが、一条氏は京都に有力な公家の本家を有する名門であるうえに、長年の土佐盟主であった一条氏を庇護することで自身の権威を保持できるという封建的な打算もあったのであろう。
 一方、この時代の天下は室町幕府を滅ぼした織田信長に移っていたところ、信長にとって土佐を拠点に祖国制覇を狙う長宗我部氏は天下統一の妨げとなることから、土佐国主を一条氏とみなしたうえ、長宗我部氏を補佐職と認証し、臣従を要求した。一種の守護代のような認識である。こうした信長の扱いに反発した長宗我部氏当主の元親は、信長との対立を深めた。
 そうした中、一条内政も、正室に元親の娘(実名不詳)を送り込まれながら、かえって長宗我部氏女婿の立場を利用して親政する権利を取り戻そうと努めた形跡がある。しかし、このような背伸びは裏目に出たようである。
 天正八年(1580年)に、長宗我部氏家臣にして元親の女婿にもなっていた重臣の波川[はかわ]清宗が自身の失敗に対する処分として蟄居を命じられたことに不満を抱き、謀叛を起こすも、元親の反撃にあい、一族滅亡に追い込まれる一件があった。
 この際、内政も謀反に加担したとされ、翌年、伊予の法華津に追放された。しかし、彼が本当に謀反に加担したのか、疑問もある。内政はその後、天正十三年六月に二十三歳で死没しているが、その死の状況については諸説あり、元親による暗殺説も存在する。
 その点、父の兼定も法華津氏領地の離島である戸島[とじま]で内政の一月後に死没しており、同様に元親による暗殺説があるのは興味深い。推測としては、一条氏の存在を脅威と感じた元親が父子もろとも抹殺した可能性も否定し切れないところである。

外様小藩政治経済史(連載第18回)

五 森藩の場合


(1)立藩経緯
 森藩は今日の大分県玖珠町を中心とする地域を領地とした小藩であり、藩主家は立藩から幕末まで一貫して来島氏が務めた。来島氏は元来、瀬戸内海の海賊勢力であった村上水軍の一角を担った来島村上氏が江戸開府後、近世大名化したものである。
 村上氏は河内源氏の系統で発祥地は信濃ともされるが、10世紀代には瀬戸内海で土着の勢力を築いていたとする説もあり、発祥には不明な点も残る。いずれにせよ、室町時代以降、言わば海の戦国大名化し、能島・因島・来島の三家に分かれて瀬戸内海西部に割拠したが、豊臣秀吉の発した海賊停止令により、活動の道を絶たれた。
 しかし、三分家のうち来島村上氏豊臣秀吉に臣従して独立大名の地位を獲得することに成功した。その秀吉の時代に当主だった通総[みちふさ]の代から独立大名として来島氏を名乗るようになるが、通総は秀吉が起こした慶長の役に際して水軍を率いて参戦、朝鮮で戦死した。この犠牲によって、来島氏と豊臣氏の結びつきはいっそう強固なものとなった。
 通総の戦死後、その跡を継いだのが15歳の来島長親であるが、来島氏と豊臣氏の結びつきは関ケ原の戦いに際しても切れることなく、来島氏は西軍側に付いた。このことにより、敗戦後は所領没収となり、浪人化することを免れなかった。
 ところが、長親が福島正則の養女を正室に迎えていたことが功を奏し、正則の仲介により、徳川家康から赦免を得ることに成功した。しかも、大名としての復帰が認められる厚遇であった。
 しかし許されたのは本領の瀬戸内海ではなく、豊後国の一部を中心として、大分湾にわずかな飛び地を付加された1万4千石の小さな知行であり、当然海賊活動も許されなかった。
 こうして成立したのが森藩、言わば、陸に上がった海賊の藩である。しかし、康親に改名して初代藩主となった長親は壮健ではなかったらしく、慶長17年(1612年)に31歳で没し、跡をわずか5歳の長男が継ぐなど、存続も危ぶまれる滑り出しであった。

インドのギリシャ人(連載第2回)

Ⅰ 始まりの始まり

 
 インドにギリシャ人王朝が出現するに当たっては前史があり、遠くは紀元前328年に始まるアレクサンドロス大王のインド遠征が大きな契機となっている。それ以前にも、ギリシャ人のインド移住はあったとする説もあるが、確証はなく、史料上も確実となるのは、大王遠征以降であるとされる。
 アレクサンドロス自身はインドを完全に支配し、そこにとどまることはなかったが、征服地にギリシャ人総督を残した。またアレクサンドロス軍に従軍した兵の中にはインドに残留し、定住した者も少なくなったと見られ、インド北西部を中心に多数のギリシャ植民都市が築かれ、インド・ギリシャの最初の礎を築いた。
 アレクサンドロスギリシャ人総督は大王の夭折後、自立して土侯的なギリシャ系小王国を形成したが、間もなくインド亜大陸統一国家となったマウリヤ朝支配下編入されたと見られる。マウリヤ朝内に無視できない規模でギリシャ人勢力が存在したことは、マウリヤ朝最大の功労者アショーカ王が残した碑文に、公用語のインド語(プラークリット語)以外にギリシャ語でも対訳文が記されたことから窺える。
 これらのマウリヤ朝治下ギリシャ人がその後どうなったのかについては情報が乏しく、不明である。現在はパキスタンとなった領域に居住する少数民族カラシュ人はアレクサンドロス大王の兵士の末裔であるとする伝承を持つが、かれらの先祖が何者であれ、紀元前2世紀に始まるインド・ギリシャ人王朝の担い手でなかったことは確かである。
 インド・ギリシャ人王朝の担い手となったのは、紀元前3世紀半ば、ちょうどアショーカ王と同年代に今日はアフガニスタン領になるバクトラ(現バルフ)を首都に興ったギリシャバクトリア王国からの分派であった。
 このギリシャバクトリア王国は、アレクサンドロス大王没後にその配下の将軍ら(ディアドコイ)によって立てられた後継王朝の一つセレウコス朝シリアの領土であったバクトリアの総督を務めていた土着ギリシャ人のディオドトス(1世)が独立し、紀元前255年頃に創始した地方王朝であった。
 最初期のギリシャバクトリア王国は、今日のウズベキスタントルクメニスタン方面への遠征により領土を拡張したものの、マウリヤ朝が支配するインドにはまだ侵出できなかった。インドへの領土拡張は、アショーカ王没後のマウリヤ朝が衰退を始めるのを待たねばならなかった。