歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

アフガニスタン形成史(連載第2回)

一 パシュトゥン人の起源

 
 複雑なモザイク多民族国家である現代のアフガニスタンで相対多数を占めるのは、パシュトゥン人である。といっても、アフガニスタンの人口割合では半分に満たない40パーセント台であり、人口数ではむしろ隣国のパキスタン側に多く居住している。
 元来、現代アフガニスタンは19世紀に英国が引いた旧英領インドとの人工的な境界線デュアランド・ラインに基づいて形成されているので、このような同一民族の股裂き状況が生じたものである。パシュトゥン人の原郷はアフガニスタンパキスタンにまたがるスライマーン山脈付近とされていることからも、元来は一体的だった両国国境地帯に発祥した山岳民族と考えられる。
 パシュトゥン人はヘルマンド文明圏が衰退した後に移住してきたインド‐イラン系民族の一系統であり、その言語であるパシュトー語は、言語系統上もイラン人のペルシャ語と並び、イラン語群に属するが、その中の支系統では別系に属しており、両者には距離がある。
 パシュトゥン人が現アフガニスタンの地で支配的となるのは18世紀以降と比較的新興勢力であるため、その民族的起源には不明な点が多いが、北イスラエル王国アッシリアに滅ぼされた後に「行方不明」となった「失われた10支族」の子孫であるとする伝承が根強く唱えられてきた。
 ちなみに、パシュトゥン人の原郷と目されるスライマーン山脈の名称由来も、統一イスラエル王国時代のソロモン王(イスラーム教では預言者スライマーン)がこの山に登り、頂上からあたりを見渡すも、一面暗闇であったので引き返したという伝説によるとされる。
 このように伝承・伝説上は何かとユダヤ人との結びつきが浮上するが、現代の遺伝子系譜の研究によると、ユダヤ人→パシュトゥン人説の裏付けとなる証拠はないという。特に、パシュトゥン人を特徴付けるY染色体ハプログループR1a1a-M198がユダヤ人では15パーセント程度しか見られないことは、両者の直接の血統的つながりを否定する根拠となる。
 いずれにせよ、パシュトゥン人が歴史に登場するのは、古代インドの聖典リグ・ヴェーダに記述されたインド・アーリア人のスダース王に戦(十王戦争)をしかけた部族の一つとして言及されるのが初出と見られる。時代的には紀元前12世紀頃のことと推定される。

ユダヤ人の誕生(連載第10回)

Ⅲ 入植・王国時代

(9)王国の分裂
 ダヴィデ、ソロモン父子王の時代に栄華を誇ったとされる統一イスラエル王国はソロモンの没後、南北に分裂する。そのうち南王国(ユダ王国)はほぼ代々ダヴィデの子孫が王位を継承していくのに対し、北王国(北イスラエル王国)は一介の官僚にすぎなかったヤロブアム1世によって建てられた。
 従来、統一王国が分裂した理由として、ソロモン王時代の重税や過酷な賦役などへの民衆の不満なども指摘されているが、前回見たように、元来「統一」王国は南部の部族を主体としており、北部(いわゆる10支族)に対する実効支配の程度には疑問符がつくことからして、王国の「分裂」とは、もともと王国に内在していた分裂がダヴィデ、ソロモンのような強力な王の没後に表面化しただけのこととも言えよう。
 いずれにせよ、紀元前10世紀末以降、ユダヤ民族は南北二つの王国に分かれ、しばらくは両国間で抗争が続いていくが、どちらかと言えば、北王国のほうが国力に富んでいたものと考えられる。北王国がやがて王都としたサマリアは山地であったが、北王国の支配領域は平野部にも広く及んでおり、農業生産力も高かったと見られるからである。
 一方、エルサレムを王都とする南王国はダヴィデ、ソロモンの系譜を引く点で王国としての正統性には勝っていたものの、その支配領域は狭隘な山地を中心としており、農業生産力も十分とは思われない。ただ、南王国は政情が安定しており、唯一の例外として前国王の母が女王として即位し、内政を混乱させたケースを除き、世襲王朝として存続していくのである。
 北王国のほうはその全史を通じてクーデターが頻発し、たびたび王位が簒奪される政変に見舞われた。こうした政情不安が命取りとなる。折からオリエントではアッシリアが強勢化して、カナンにも手を伸ばしてきていたところ、末期の北王国は相次ぐクーデターで政情不安がいっそう募っており、アッシリアの攻勢に対して防備を固める余裕がなかった。
 結果として、北王国は前722年、アッシリアの征服王サルゴン2世の大規模な侵攻作戦の前に滅亡した。以後、北王国支配層は捕虜として連行されていき、民衆は離散したが、少なからぬ者がアッシリアの属州統治政策としてカナンに移入してきたアッシリア人をはじめとする異民族と通婚・混血させられ、同化されていった。聖書で否定的に言及されるサマリア人とは、こうして生じた混血系の新たな自覚的少数民族であったがゆえに、ユダヤ人から迫害を受けることになる。
 ちなみに有名な「失われた10支族」とは北王国を構成し、王国滅亡後に「行方不明」となった10部族のことであるが、伝承としてはともかく、史実としての「失われた」とは、混血同化による民族的アイデンティティーの喪失を意味しているであろう。
 さて、「ダヴィデ朝」としての伝統を保持した南王国は政情の安定に支えられて、北王国よりも150年ほど長く存続していく。外交的にもアッシリア、次いで勢力を回復したエジプトに服属することで安全を確保していたが、新興の新バビロニアに宗主エジプトが敗れたことを契機に新バビロニアに押さえ込まれていく。
 前597年と586年の二度にわたる新バビロニアネブカドネザル2世によるエルサレム攻略により、支配層や有力者の多くがバビロンに捕虜して連行され(バビロン捕囚)、ダヴィデ朝はついに滅亡したのであった。

ユダヤ人の誕生(連載第9回)

Ⅲ 入植・王国時代

(8)王国の形成
 中央山地勢力によるカナン平野部再移入が一段落すると、入植地を保持するする目的から、統一王国樹立の機運が生じた。旧約によれば、イスラエル最初の王はサウルであった。彼は、最後の士師サムエルが神の啓示によって選んだベニヤミン族の若者であった。
 サウル自身は王制に否定的であったが、民衆の要求に従うよう神の命を受けたとされる。その際、神はサウルに王の権能について民衆に事前告知するよう指示し、民衆が王によって抑圧されるような事態もあり得ると王制のデメリットを説明したうえ、民衆の判断に委ねたのである。
 このエピソードから読み取れるユダヤ民族の政治思想は、反王制ということである。王国樹立はあくまでも入植地の安全を保障するための技術的な手段にすぎなかったのである。ユダヤ民族は本来、士師時代のように部族ごとの分権体制への性向が強く、現実の必要から王国を樹立しても世襲専制王権とはならず、初期には王はサウルやダヴィデのように庶民から選抜されたり、後にもしばしばクーデターによる王位簒奪が発生するなど、血統より実力を重んじる傾向が根強かったと言える。
 ともあれ、紀元前11世紀末頃には統一イスラエル王国が樹立される。だが、この「王国」が実際どの程度整備されていたかは疑わしい。サウルもダヴィデもサムエルによる抜擢であったことを見ると、最初期の最高実力者はなお士師サムエルであって、王は象徴的な存在ないしは軍司令官のような地位に過ぎなかったようにも見える。
 ただ、1990年代前半に今日のイスラエル北部の遺跡で発見された紀元前9世紀頃のアラム語碑文に「ダヴィデ朝」と解釈できる文言が刻まれていたことから、ダヴィデを開祖とする王朝の存在は確認できたとされる。だが、これは王国分裂後のことである。
 統一王国時代の王都は南部のエルサレムで、サウルの属したベニヤミン族もダヴィデの属したユダ族も南部に根拠を置く部族であったことからすると、かれらの「統一」王国は主として南部の部族による連合王国であり、北部をどの程度実効支配していたか疑問なしとしない。
 しかも、サウルもダヴィデもその治世の大半をペリシテ人との戦いに費やしており、依然パレスチナ南部ではペリシテ人が強大な勢力を保持していたことが窺え、根拠地の南部地域ですら決して安全は保障されていなかったと見られる。
 その「統一」王国も最初のサウル王統はサウルの息子イシュ・ボシェテで終わり、ダヴィデが新たな王朝を開く。ダヴィデ王の晩年にはようやく安定を確保し、彼は中央集権統治の確立に向け、王権強化を進めたとされる。ダヴィデの後を継いだのが、彼の息子、有名なソロモンである。
 ソロモンはその栄華と英知をもってその名をとどろかせたとされ、彼の時代は統一王国時代の全盛期とみなされるが、高名なはずのソロモンが同時代のエジプトやアッシリアの文献では一切言及されないことからも、初期のイスラエル王国の権勢について過大評価は避けねばならないだろう。