歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東通史―中心⇔辺境(14)

十五 「政東経西」の近世

 今日、首都東京を中心とする関東は、日本の政治経済、そして人口の大半が集中する「一極集中」の緩和が永遠の宿題となるほど偏向した中心地となっているが、このような現象は近代以降、それも主として第二次世界大戦後のことにすぎなかった。
 江戸幕府の体制は過去の二つの幕府と比べても強大な権限を幕府が掌握し、全国の領主大名を中央で統制しつつも、完全な中央集権制には移行せず、大名領地内では自治を認め、領地の経済開発も基本的に領主に委ねる封建的な分権体制を維持したため、大藩の藩庁所在地たる城下町はそれぞれの地域の小さな「首都」であった。
 江戸開府により江戸を中心とする関東が中心地としての地位を取り戻したとはいえ、それは政治的な中心にとどまり、経済的にはなお周縁的、良くて副次的な地位に甘んじていた。経済的な中心はなおも関西にあったのだった。
 大坂の有名な通称「天下の台所」は、まさに大坂が全国の経済的な屋台骨であったことを象徴している。堺を中心に従前から商業都市として繁栄していた大坂は江戸開府以前、豊臣氏が事実上の政治的な首都として拠ったこともあり、近世日本の政治経済的な中心地として急速な発展を遂げていた。
 大坂は、政治的な面では間もなく江戸に首都の地位を譲るが、経済首都としての地位は容易に譲らなかった。諸藩も大坂に藩の経済代表部である蔵屋敷を集中的に置き、年貢米や特産品の販売などの公営商業活動を盛んに展開した。
 もっとも、幕府もこうした経済都市大坂の枢要性は十分に承知していたからこそ、大坂城に拠った豊臣氏が日本の経済を掌握して強大化し、事実上半独立勢力と化すことのないよう早期に根絶したのであろう。
 幕府は豊臣氏滅亡後間もなく、大坂を幕府直轄地として忠実な譜代大名から任命される大坂城代を派遣し、大坂の市政に当たる大坂町奉行にも中央直轄で幕府の役人を送り込む徹底した中央管理下に置いた。
 こうして経済首都大坂も江戸の行政管理下に置かれていた限りでは、江戸が経済的にも全国の中心地と言えなくもなかったのであるが、実質的に見れば、近世日本は政治首都(江戸)と経済首都(大坂)が機能的に分かれており、言わば「政東経西」の状態にあったと言うほうが正確であろう。

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