歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

白川郷内ケ島氏興亡物語(連載第1回)

一 内ケ島氏前史

 
 岐阜の白川郷は今日、合掌造り建築で広く知られているが、埋蔵金伝説のある帰雲城も大震災の悲劇で知られるようになってきた。といっても、城は天正十三年(1586年)の天正地震に伴う土砂崩れで完全に崩壊・埋没し、その所在地も不明のままである。
 帰雲城を15世紀後半に築造したのが、当時、白川郷を支配した国人領主・内ケ島氏である。内ケ島氏は国人といっても完全な土着豪族ではなく、室町時代に足利将軍からこの地を授封されて入部してきた外来の氏族である。
 その発祥地が何処であるかについては定説を見ず、南朝派・楠木氏の一党とする説もあるが、内ケ島という氏族名や北朝派・足利氏との結びつきの強さからすると、武蔵国内ケ島を本貫とする豪族であったようである。現在も埼玉県深谷市に内ケ島の地名があり、内ケ島氏の中世館遺構が近年まで残されていた。
 この内ケ島氏は平安時代武蔵国に興った坂東武士団武蔵七党の一党であった猪俣党の支族・岡部氏の流れとされる。その一族の一人である岡部五郎国綱が内ケ島に居を構え、当時の慣習により地名にちなんで内ケ島氏を名乗るようになった。
 その後、内ケ島氏は、他の武蔵武士団と同様、関東に勢力を伸ばした源氏と主従関係を結び、伸長していった。最終的に源氏系足利氏の重臣に納まったことを見ると、早くから、かつ一貫して源氏に臣従していたと考えられる。
 源平合戦を経て源氏が政権を掌握すると、内ケ島氏は鎌倉幕府御家人となる。鎌倉幕府公式史書である『吾妻鑑』には、承久の乱をはじめ、幕府方で活躍した御家人内ケ島氏の事績がある程度記されている。鎌倉幕府滅亡後は、新たな源氏棟梁として台頭してきた足利氏に臣従したようで、源氏との結びつきは強固である。
 しかし、華々しい事績を持つ人物は輩出しておらず、かつ震災で一族全滅するという数奇な最期を遂げたことで正確な系図も残されていないことから、次に実在人物として内ケ島氏の名が登場するのは、鎌倉幕府滅亡、建武新政南北朝時代を経て室町幕府三代目将軍足利義満の時代に馬廻衆に名を連ねた内ケ島季氏である。
 ちなみに季氏以降、歴代内ケ島氏当主の名に「氏」の字が必ず付く慣例が室町幕府開祖・足利尊氏から賜った偏諱とすれば、内ケ島氏は足利氏と相当古くから強い主従関係で結ばれていたことを示唆する。この内ケ島季氏までが、白川郷内ケ島氏の前史である。