歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

仏教と政治―史的総覧(連載第11回)

四 中央アジア諸王朝と仏教

インド‐グリーク朝と仏教
 仏教創始者・釈迦の出身地は北インドであったから、仏教がさらに北方へ伝播されることは自然な流れであった。その点、マウリヤ朝アショーカ王は今日のアフガニスタンを中心とするガンダーラの征服を通じて、この地域にも仏教を伝え、仏塔などの仏教建築物を残している。
 元来、ガンダーラは古代インド十六大国の中の一つに数えられた北方の部族国家であったが、やがてイラン系アケメネス朝ペルシャの版図に組み込まれたことで、イラン化されていった。アケメネス朝が衰退した後、マケドニアアレクサンドロス大王の遠征を経て、その後継王朝セルウコス朝からインド系マウリヤ朝がこの地を奪回したのである。
 しかし、マウリヤ朝支配も長続きせず、やがてアレクサンドロスの遠征以来、この地に入植・土着していたギリシャ人勢力が台頭してくる。ここに成立したのが、文化的にも興味深いインド‐グリーク朝と呼ばれるギリシャ人王国である。
 この王朝の前身は、セレウコス朝総督だったディオドトスが紀元前3世紀半ばに独立して建国したグレコバクトリア王国であるが、これが前2世紀前半にバクトリア領とインド亜大陸領とに分裂し、そのうち後者に成立したのが、インド‐グリーク朝である。
 インド‐グリーク朝の支配層はギリシャ系であり、その本来的な宗教は当然にもギリシャ多神教であったが、マウリヤ朝支配下で仏教に帰依する者が増加していた。これは、当地の少数異民族としてギリシャ人がインド社会に同化するうえで、身分制度の厳格な伝統宗教バラモン教よりは、後発宗教であった仏教への改宗が選択された結果と見られる。
 インド‐グリーク朝最盛期を演出したのは、メナンドロス1世である。仏典上にも「ミリンダ王」として登場する彼は、インドの高僧ナーガセーナとの問答を通じて仏教に改宗したとされる「ミリンダ王の問い」の逸話で知られている。
 しかし半ば伝説であり、グリーク朝が正式に仏教を国教化したわけでもなく、グリーク朝自体もメナンドロス1世の没後、周辺遊牧民勢力の侵入を受けて分裂・衰退し、群雄割拠を続けた後、紀元後1世紀初頭までにはほぼ滅亡・消滅した。
 こうして、インド‐グリーク朝―広くはインド‐ギリシャ人―の支配は長続きすることはなかったのだが、かれらの―全部ではないにせよ―仏教受容は、やがてこの地に花開くガンダーラ仏教の嚆矢としての意義を持ったと言える。